2013年7月6日土曜日

政党党首の書いた文字をみてびっくり。う~ん。

 いまどきの政治家は,色紙を書いたり,掛け軸になるような揮毫をしたりすることはないのだろうか。昨夜のNHKのニュースをみていて驚いた。4日の参院選の公示を受けて,一斉に選挙運動に入った各政党党首に問う,というかたちで特番が組まれていた。たぶん,ご覧になった方も多いことと思う。

 NHKのアナウンサーと政治部の記者が交互に,各政党党首に質問をするという形式で進められた。その質問の仕方も,わたしには不満だらけであったが,それはもういつものことなので,この際は問わないことにする。それ以外の、まことに些細なことにみえるかもしれないが,わたしにとっては一大事だと感じたことを書いてみたい。

 各政党党首は,NHKが用意した三つの質問に対してその考えをボードに書かされて,それを自分の映像の前に立ててみせながら,再度,質問に答えるということを「演じさせられた」。みなさん大まじめにお答えになっていたのだが,その構図がなんとも漫画チックで可笑しかった。その効果を上げたのが,ボードに書かれた各政党党首の「文字」だった。

 まともな「文字」が書けていたのは,海江田氏と小沢氏ともうひとり女性の代表だけで,あとの党首たちは,みるも無惨。これが政党の党首と呼ばれる人たちの書く「文字」なのかと大いに失望した。平均点は「中学生」なみ。およそ「文字」というものが本来どういうもので,それを読む/見る人にどのような印象を与えるか,なにも考えていないかのようだ。もちろん,それがその人の性格を期せずして露呈するものでもある,などということには一切無頓着の様子。まあ,読めりゃあいいんだろ,というような「投げやり」の姿勢がわたしにはもろに伝わってきた。

 海江田氏は,これまであまりいい印象はなかったが,この人の書いた「文字」をみて,ああ誠実な人なんだなぁ,と思った。まじめに,きちんと楷書で,整った「文字」になっていた。上手・下手は問わない。一生懸命に書いたな,つまり,気持ちの籠もった「文字」だな,と伝わってきた。ただ,欲を言えば,もう少し「力」のある「文字」を書いて欲しかった。党首なのだから。

 それと同じことが,小沢氏にも言える。辣腕・小沢というイメージがゆきとどいている割には,「文字」は小心者。余白をいっぱい残したまま,小さな文字で,律儀にきちんと書かれていた。まあ,褒めるとすれば「隙のない文字」。さあ,どこからでも掛かってこい,と言わぬばかりの「守り」の文字。なるほど,囲碁好きの小沢氏らしく,まずは「守り」から入るというわけか。

 もうひとりの女性(名前を間違えるといけないのでこのままにする)は,しっかりと視聴者に読まれることを意識して,デザインまでされていた。漢字を大きく,ひらがなを小さく,そして,全体のバランスまできちんと配慮されていた。この人は,あらゆることに神経を行き届かせて,他人に不快感を与えることのないように,という心配りのできる人かなぁ,と想像した。

 あとの人は,なにを考えているのか,いや,なにも考えないで,ただ書いた,という「投げやり文字」。安倍氏は,その意味では天真爛漫。これがときの総理大臣の文字とはとても思えない。かえって,あまりに無邪気・無神経・無防備な文字に,この人,大丈夫?という不安をいだいてしまう。もっとひどかったのが橋下氏の文字。中学生以下,小学生上級生の悪筆のレベル。まさに,傍若無人。読む人,それを見る人のことなど眼中になし。書きゃーいいんだろっ,という腕白坊主そのままの性格が文字にみごとに露呈している。その意味でとてもわかりやすかった。

 あとの人のことは割愛。論評するに値しないということ。

 わたしの記憶では,むかしの偉大なる政治家と呼ばれた人たちは,その多くが立派な書を残している。勢いのある「力」の籠もった書をあちこちでみかけ,その個性的な書が,わたしの印象に残っている。明治の人たちは「書」を嗜むことが教養のひとつだったとも聞く。それが,時代とともに書の文化が廃れていく。いまでは,手紙の代わりに,すべてパソコンで書いて,そのまま送信して終わり。文字を手で書くことはどんどん減っていく。だから,文字に対する感覚もほとんどなくなってきている。文字は試験の答案を書くためのツールくらいにしか考えてはいないらしい。そこでは文字の上手下手は問題にされない。

 むかしの武将はこぞって「力」のある文字を書いた。あの教養がないといわれた豊臣秀吉ですら,文章の中味はともかくとして,書く文字は桁外れに「威力」をもっていた。誰はばかることもない天真爛漫さに加えて,気魄が相手の武将を圧倒するような「力」をもっていた。だから,かれの書はわたしのこころを釘付けにしてきたし,味があってわたしは大好きである。

 文字は体を表す。そして,性格を表す。その人の身振りを表す。つまりは,その人のすべての要素が凝縮しているパフォーマンスのひとつなのだ。もっと言ってしまえば,文字はもともとは「呪文」を表すもので,書く人の魂が籠もっているものだ。だから,なにも考えないで文字を書く人の気持ちは,そのままに伝わる。つまり,気持ちが籠もっていない,と。

 テレビ・カメラの前で,自分で書いたボードを持たされて,それをもとにして質問がなされる。視聴者はじっとそのボードに書かれた文字に注意をそそぐことになる。場合によっては,ボードだけがクローズアップされて,人物の顔さえ画面からは消えている。こうなると,ボードに書かれた文字が,その人の顔の代役となる。

 だから,がさつな人はそのまま文字に表れていて,とてもわかりやすい。武者小路実篤のように,ヘタウマという文字もある。それが度を超えているので,ある「呪力」をもちはじめる。となると,何回見ても飽きない味がでてくる。だから,色紙として大切にされた。武者小路実篤の書の根底にながれていたものは「誠心誠意」である。

 いまの政治がハチャメチャにみえるのも,この政治家たちの書いた文字を眺めながら,なんとなく納得してしまった。もちろん,立派な文字を書かれる政治家も少なくないと思う。たとえば,江田五月さんなどは立派な書家の域に達している。だから,この人の揮毫された文字はあちこちでみかける。切れ味のいい鋭い文字である。が,欲をいえば,政治家らしい太い線がとぼしい。

 いまの学校現場が乱れてしまうのも,きちんとした気持ちの籠もった文字の書ける先生が激減してしまったことと,どこかで符号しているように思えてならない。

 以上,政党党首の書いた文字雑感まで。
 ひとこと断っておけば,「筆跡学」はわたしの趣味のひとつ。

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