毎月1回開催している「ISC・21」の月例会が,今月は,大阪学院大学を会場にして行われました。今回もとても充実した議論ができ,また,一歩積み上げができたかな,と大満足です。どんな議論がなされたのかということについは,いずれ整理しておきたいとおもっています。が,その前に,新幹線の車窓からみえるソーラー・パネルの数が徐々に増えているのでは・・・・,ということに気づき,それからあとは夢中になってソーラー・パネルの姿ばかりを追い求めていました。
むかしから,汽車に乗ると,じっと車窓からみえる景色を眺めるのが好きでした。ですから,いまでも新幹線に乗るときは可能なかぎり窓側の座席を確保することにしています。そして,ほとんどなにも考えないようにして,ぼんやりと景色を眺めています。そうすると,意外な景色が眼に飛び込んでくることがあります。いままで,とことん見慣れてきた新幹線からの景色であるはずなのに,ときおり予想外の発見をすることがあります。そして,そこから,いろいろの発想が生まれてきたりします。しかも,あくことなき想像力をはたらかせていくと,ふだん思ってもみなかった思考の地平がどんどん広がっていって,恍惚となることがあります。つまり,わたしにとっての新しいオブジェの発見というわけです。
今回のオブジェは,ソーラー・パネルでした。もちろん,これまでにも新幹線の車窓からソーラー・パネルは眺めていたはずです。ですから,それは見慣れた当たり前の風景のひとつだったはずです。つまり,ソーラー・パネルが他の森や山や街並みと同じように,ただ,みえているだけのことであって,その存在が意識にまでのぼってくることはありませんでした。が,今回は,そのソーラー・パネルがわたしの意識にのぼってきて,おやっ?と気づかされることになりました。つまり,車窓からみえていたソーラー・パネルが,今日,初めてとくべつの意味をもちはじめたというわけです。
そんなことを仰々しく取り上げなくても,みんな承知していることだよ,といわれるかもしれません。しかし,単なる風景であったソーラー・パネルが,特別の意味をもつ存在としてわたしの意識にのぼってきたのですから,これはわたしにとっては看過するわけにはいきません。
そうだよ,ソーラー・パネルだよ・・・・,とひとりごとをいいながら,注意して眺めていると,家の屋根にソーラー・パネルがいくつもみえてきます。そして,こんなにたくさんのソーラー・パネルがあったかなぁ,と考えたりしています。よくよくみると,新築の家にソーラー・パネルが多い,ということに気づきます。そうか,新築のときに一緒にやってしまえば,電気代は不要となり,余れば売ればいい。ということは,これから新築する家にはソーラー・パネルが増えていくことになる。つまり,脱原発などといわなくても,みずから行動で意思表明をしているのだから。この方法はなかなかスマートでいい。お金のある人はぜひこの方法を採用してください。
つぎに眼についたのは,学校の屋上,役所の屋上,病院の屋上にソーラー・パネルが増えているということでした。さらには,町工場の倉庫の上,空き地,休耕田,などにもちらほらとソーラー・パネルが設置してあります。これまでにも,時折,みかけることはありましたが,その数は微々たるものでした。それが,いつのまにか,かなりの数になっているのを知って驚いた次第です。
これはいい。まだまだ設置する場所はいくらでもある。なにも,メガ・ソーラーのような大規模な発電装置にとらわれている必要はありません。国民ひとりひとりができるところからはじめればいい。それはたしかに微々たるものでしかありません。しかし,この微々たるものの総和となると,メガ・ソーラーの発電量をも凌ぎ,超えていくことは容易に想定できます。
一昨年,訪れた中国雲南省の昆明市の光景を思い出してしまいます。高層ホテルの上階の部屋から眺めた昆明市の家々にはびっしりとソーラー・パネルが設置してありました。ビルの屋上にも,間違いなくソーラー・パネルが張ってありました。道路の信号機の一つひとつにも小さなソーラー・パネルが張ってありました。このことは,このブログにも書きました。詳細はそちらに譲ることにしたいとおもいます。
日本も,原発にこだわり,そこにカネをかけつづけていることを考えれば,それだけの国家予算を,個人でソーラー・パネルを設置する人のために支援することなどいともたやすいことであるはずです。なのに,なんともはや腰の重いことか,とあきれ返ってしまいます。みるにみかねた城南信用金庫(理事長)は,中小企業主や商店主や地域住民を対象に,ソーラー・パネルの設置のための特別融資をかってでています。しかも,業者の推薦から,その後の管理・運営に関するいっさいを含めて支援することに全力を注いでいます。
それにしては,国も地方自治体もフットワークが重すぎます。それにじれた国民が,率先垂範するようにして,自宅の屋根にソーラー・パネルを設置しはじめています。それに後押しされたのか,学校や病院や役所の屋上にソーラー・パネルが設置されるようになってきているようです。そして,さらには倉庫の屋根や空き地や休耕田などへとその動きが拡大しつつあるんだなぁ,とそんなことを新幹線の車窓からぼんやりと考えていました。
ドイツの再生可能エネルギーへの取り組みは,こうした市民の小さな運動からはじまって,それらをつなぐ全国的なネットワークを構築して,膨大な電力を確保できるようになってきている,と聞いています。まもなく電力を輸出できるようになるだろう,とも。
日本もドイツと同じようなことをやろうと思えばできます。しかも,そのキャパシティはドイツよりも有利です(日照時間の長さが圧倒的に違います)。なのに,政府はそこには手をつけようとはしません。なぜかは,もう,お分かりのとおりです。そうです。既得権益をなんとしても手放そうとはしない人びとが大きな壁になっているからです。この壁を,いかにして突き崩すか,まずは,ここからはじめるしかありません。
とまあ,こんなことを新幹線の車窓から景色を眺めながら,考えていました。これからも,どんどん,ソーラー・パネルが増えつづけることを期待したいとおもいます。そして,気がついたら原発は不要の長物であった,という時代を早く迎えたいものです。単なる夢物語に終わらせたくない話ですね。
むかしから,汽車に乗ると,じっと車窓からみえる景色を眺めるのが好きでした。ですから,いまでも新幹線に乗るときは可能なかぎり窓側の座席を確保することにしています。そして,ほとんどなにも考えないようにして,ぼんやりと景色を眺めています。そうすると,意外な景色が眼に飛び込んでくることがあります。いままで,とことん見慣れてきた新幹線からの景色であるはずなのに,ときおり予想外の発見をすることがあります。そして,そこから,いろいろの発想が生まれてきたりします。しかも,あくことなき想像力をはたらかせていくと,ふだん思ってもみなかった思考の地平がどんどん広がっていって,恍惚となることがあります。つまり,わたしにとっての新しいオブジェの発見というわけです。
今回のオブジェは,ソーラー・パネルでした。もちろん,これまでにも新幹線の車窓からソーラー・パネルは眺めていたはずです。ですから,それは見慣れた当たり前の風景のひとつだったはずです。つまり,ソーラー・パネルが他の森や山や街並みと同じように,ただ,みえているだけのことであって,その存在が意識にまでのぼってくることはありませんでした。が,今回は,そのソーラー・パネルがわたしの意識にのぼってきて,おやっ?と気づかされることになりました。つまり,車窓からみえていたソーラー・パネルが,今日,初めてとくべつの意味をもちはじめたというわけです。
そんなことを仰々しく取り上げなくても,みんな承知していることだよ,といわれるかもしれません。しかし,単なる風景であったソーラー・パネルが,特別の意味をもつ存在としてわたしの意識にのぼってきたのですから,これはわたしにとっては看過するわけにはいきません。
そうだよ,ソーラー・パネルだよ・・・・,とひとりごとをいいながら,注意して眺めていると,家の屋根にソーラー・パネルがいくつもみえてきます。そして,こんなにたくさんのソーラー・パネルがあったかなぁ,と考えたりしています。よくよくみると,新築の家にソーラー・パネルが多い,ということに気づきます。そうか,新築のときに一緒にやってしまえば,電気代は不要となり,余れば売ればいい。ということは,これから新築する家にはソーラー・パネルが増えていくことになる。つまり,脱原発などといわなくても,みずから行動で意思表明をしているのだから。この方法はなかなかスマートでいい。お金のある人はぜひこの方法を採用してください。
つぎに眼についたのは,学校の屋上,役所の屋上,病院の屋上にソーラー・パネルが増えているということでした。さらには,町工場の倉庫の上,空き地,休耕田,などにもちらほらとソーラー・パネルが設置してあります。これまでにも,時折,みかけることはありましたが,その数は微々たるものでした。それが,いつのまにか,かなりの数になっているのを知って驚いた次第です。
これはいい。まだまだ設置する場所はいくらでもある。なにも,メガ・ソーラーのような大規模な発電装置にとらわれている必要はありません。国民ひとりひとりができるところからはじめればいい。それはたしかに微々たるものでしかありません。しかし,この微々たるものの総和となると,メガ・ソーラーの発電量をも凌ぎ,超えていくことは容易に想定できます。
一昨年,訪れた中国雲南省の昆明市の光景を思い出してしまいます。高層ホテルの上階の部屋から眺めた昆明市の家々にはびっしりとソーラー・パネルが設置してありました。ビルの屋上にも,間違いなくソーラー・パネルが張ってありました。道路の信号機の一つひとつにも小さなソーラー・パネルが張ってありました。このことは,このブログにも書きました。詳細はそちらに譲ることにしたいとおもいます。
日本も,原発にこだわり,そこにカネをかけつづけていることを考えれば,それだけの国家予算を,個人でソーラー・パネルを設置する人のために支援することなどいともたやすいことであるはずです。なのに,なんともはや腰の重いことか,とあきれ返ってしまいます。みるにみかねた城南信用金庫(理事長)は,中小企業主や商店主や地域住民を対象に,ソーラー・パネルの設置のための特別融資をかってでています。しかも,業者の推薦から,その後の管理・運営に関するいっさいを含めて支援することに全力を注いでいます。
それにしては,国も地方自治体もフットワークが重すぎます。それにじれた国民が,率先垂範するようにして,自宅の屋根にソーラー・パネルを設置しはじめています。それに後押しされたのか,学校や病院や役所の屋上にソーラー・パネルが設置されるようになってきているようです。そして,さらには倉庫の屋根や空き地や休耕田などへとその動きが拡大しつつあるんだなぁ,とそんなことを新幹線の車窓からぼんやりと考えていました。
ドイツの再生可能エネルギーへの取り組みは,こうした市民の小さな運動からはじまって,それらをつなぐ全国的なネットワークを構築して,膨大な電力を確保できるようになってきている,と聞いています。まもなく電力を輸出できるようになるだろう,とも。
日本もドイツと同じようなことをやろうと思えばできます。しかも,そのキャパシティはドイツよりも有利です(日照時間の長さが圧倒的に違います)。なのに,政府はそこには手をつけようとはしません。なぜかは,もう,お分かりのとおりです。そうです。既得権益をなんとしても手放そうとはしない人びとが大きな壁になっているからです。この壁を,いかにして突き崩すか,まずは,ここからはじめるしかありません。
とまあ,こんなことを新幹線の車窓から景色を眺めながら,考えていました。これからも,どんどん,ソーラー・パネルが増えつづけることを期待したいとおもいます。そして,気がついたら原発は不要の長物であった,という時代を早く迎えたいものです。単なる夢物語に終わらせたくない話ですね。
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