ニーチェをどのように評価し,かれの思想・哲学からなにを継承するかという点については,いまでも議論の多いところだとおもいます。ハイデガーは,ニーチェはわたしの師匠である,といいました。それに対して,ジョルジュ・バタイユは「ニーチェを生きる」と断言しました。当時,ニーチェの思想・哲学を高く評価する哲学者のなかでも,バタイユのそれは異色だったとおもいます。わたしはバタイユのこの発言に刮目しました。「ニーチェを生きる」とはどういうことなのか,とわたしはかなり深刻に考えたことがあります。なぜ,バタイユはこんな言い方をするのか,と。そうして,考えていくうちに,ますますバタイユの世界にのめりこんでいくことになりました。
いったい,バタイユに「ニーチェを生きる」と言わしめた理由はなにか。その全貌を語る資格はわたしにはありません。しかし,ニーチェのどこがバタイユを惹きつけたのか,その一端をスポーツ批評という観点から見出すことは可能だろう,と考えています。結論をさきどりしておけば,「ニーチェを生きる」ということばに,じつは,バタイユの「批評性」のすべてが籠められている,とわたしは考えています。つまり,「批評」とは,そういうことなのだ,と。以下には,その点に限定して,わたしの見解を述べておこうとおもいます。
そのキー・ワードは,ニーチェがそのデビュー作である『悲劇の誕生』で提示した「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」のふたつです。ギリシアの古典を徹底的に分析した古典文献学者としてのニーチェが,その結論として導き出した概念がこの「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」のふたつでした。つまり,ギリシア悲劇が誕生するもっとも大きなきっかけは,理性的合理主義的な考え方(アポロン的なるもの)と情動的な快楽主義的な考え方(ディオニュソス的なるもの)との,真っ向からの対立,亀裂にあった,とひとまず整理しておきたいとおもいます。もう少しだけ補足しておけば,実際に生きる人間はこの両方の考え方につねに呪縛されていて,この両者の葛藤のもとに「生」を営んでいる,というのが実態であるわけです。ということは,人間が生きるとは,つまり「宙づり」状態を生きるしかないというわけです。しかし,このことをなかなか認めようとはしない人びとが多数を占めているのも事実です。ここに,じつは,現代の「悲劇」が待ち受けているという次第です
もともと,ディオニュソス的なコスモロジーを生きていた古代ギリシアの人びとが,あるときから,「アポロン的なるもの」を優位に立たせて,ものごとを考え,生きるようになります。そして,情動的な「生」の喜び・快楽を徐々に蔑むようになってきます。そのようにして誕生した悲劇のひとつがエウリピデスの『イフィゲネイア』です。トロイア戦争に勝利するためには,ギリシア軍を率いるアガメムノンの娘イフィゲネイアを供犠にささげなくてはならない,という託宣がくだります。しかし,父アガメムノンとしては,その情において,それを実行するわけにはいきません。妻のクリュタイムネストラは娘イフィゲネイアを犠牲にささげることに徹底的に反対し,抵抗します。つまり,トロイア戦争に勝利しなければならないという目的(アボロン的なるもの)をなし遂げようとすれば,娘イフィゲネイアの命を救うことはできません。ここに「悲劇」が誕生するというわけです。
ニーチェが抽出した概念「アポロン的なるもの」は,こんにちの時代に置き換えれば「科学的合理主義」です。それに対して,「ディオニュソス的なるもの」とは「生の源泉」に触れる喜びを重視する「生命中心主義」(あるいは「快楽主義」)に相当します。この情況は,じつは,古代ギリシアのむかしから,こんにちの現代文明社会を生きるわたしたちに至るまで,基本的には少しも変わってはいません。もっとはっきり言っておけば,科学的合理主義に信をおく原発推進派か,命を守ることを最優先させる脱原発派か,という分裂現象がじつによくこのことを表しています。ここに,現代の「悲劇」の誕生をみることができます。二者択一しかありません。しかし,よくよく考えてみれば,わたしたちは「科学」のみで生きることはできないということは,だれの眼にも明らかです。しかし,お金の魔術にひっかかってしまった人びとには,その可笑しさすらわからなくなっています。お金よりも「命」が大事という,こんな単純な論理すら理解できない人が多数を占めるようになった世の中をどのように考えればいいのでしょうか。
ここに,「批評」が成立する根拠がある,とわたしは考えています。ということは,「スポーツ批評」もまた,このことと無縁ではありえません。スポーツにとって「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」をどのように考えるべきか,わたしのスポーツ批評を支えるひとつの重要な根拠はここにあります。
スポーツにとって「アポロン的なるもの」とは,ルールであり,管理・運営する組織であり,経済的合理主義などによって絡め捕られる側面のことです。それに対して「ディオニュソス的なるもの」とは,スポーツをする喜びであり,フロー体験であり,エクスターズに接近していく快感のようなものを意味します。近代競技スポーツは「アポロン的なるもの」に大きく傾斜していきました。そのために「ディオニュソス的なるもの」を,ルールによって徹底的に排除していきました。そのために,スポーツのあるべき姿が極端に偏ってしまい,勝つことだけが唯一・最高の価値をもつにいたってしまいました。つまり,スポーツは,経済の市場原理に絡め捕られ,さらにはメディアの格好の餌食にされてしまい,形骸化・事物化(ショーズ化)し,金融化へとますます傾斜しつつあります。その結果,子どもの遊びにも等しい,素朴なスポーツをする喜びが軽視され,抑圧され,排除されるという経過をたどりつつあります。
ニーチェの思想・哲学からは,スポーツ批評をする上において,もっともっと多くの重要な示唆をえることができます。それらについては,また,別の機会に触れてみたいとおもいます。今回は,とりあえず,「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」という,ニーチェの重要なふたつの概念装置について考えてみました。
いかがでしたでしょうか。こんなことを,とりあえず,わたしは「スポーツ批評」を立ち上げるために必死で考えています。
とりあえず,今日のところはここまで。
いったい,バタイユに「ニーチェを生きる」と言わしめた理由はなにか。その全貌を語る資格はわたしにはありません。しかし,ニーチェのどこがバタイユを惹きつけたのか,その一端をスポーツ批評という観点から見出すことは可能だろう,と考えています。結論をさきどりしておけば,「ニーチェを生きる」ということばに,じつは,バタイユの「批評性」のすべてが籠められている,とわたしは考えています。つまり,「批評」とは,そういうことなのだ,と。以下には,その点に限定して,わたしの見解を述べておこうとおもいます。
そのキー・ワードは,ニーチェがそのデビュー作である『悲劇の誕生』で提示した「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」のふたつです。ギリシアの古典を徹底的に分析した古典文献学者としてのニーチェが,その結論として導き出した概念がこの「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」のふたつでした。つまり,ギリシア悲劇が誕生するもっとも大きなきっかけは,理性的合理主義的な考え方(アポロン的なるもの)と情動的な快楽主義的な考え方(ディオニュソス的なるもの)との,真っ向からの対立,亀裂にあった,とひとまず整理しておきたいとおもいます。もう少しだけ補足しておけば,実際に生きる人間はこの両方の考え方につねに呪縛されていて,この両者の葛藤のもとに「生」を営んでいる,というのが実態であるわけです。ということは,人間が生きるとは,つまり「宙づり」状態を生きるしかないというわけです。しかし,このことをなかなか認めようとはしない人びとが多数を占めているのも事実です。ここに,じつは,現代の「悲劇」が待ち受けているという次第です
もともと,ディオニュソス的なコスモロジーを生きていた古代ギリシアの人びとが,あるときから,「アポロン的なるもの」を優位に立たせて,ものごとを考え,生きるようになります。そして,情動的な「生」の喜び・快楽を徐々に蔑むようになってきます。そのようにして誕生した悲劇のひとつがエウリピデスの『イフィゲネイア』です。トロイア戦争に勝利するためには,ギリシア軍を率いるアガメムノンの娘イフィゲネイアを供犠にささげなくてはならない,という託宣がくだります。しかし,父アガメムノンとしては,その情において,それを実行するわけにはいきません。妻のクリュタイムネストラは娘イフィゲネイアを犠牲にささげることに徹底的に反対し,抵抗します。つまり,トロイア戦争に勝利しなければならないという目的(アボロン的なるもの)をなし遂げようとすれば,娘イフィゲネイアの命を救うことはできません。ここに「悲劇」が誕生するというわけです。
ニーチェが抽出した概念「アポロン的なるもの」は,こんにちの時代に置き換えれば「科学的合理主義」です。それに対して,「ディオニュソス的なるもの」とは「生の源泉」に触れる喜びを重視する「生命中心主義」(あるいは「快楽主義」)に相当します。この情況は,じつは,古代ギリシアのむかしから,こんにちの現代文明社会を生きるわたしたちに至るまで,基本的には少しも変わってはいません。もっとはっきり言っておけば,科学的合理主義に信をおく原発推進派か,命を守ることを最優先させる脱原発派か,という分裂現象がじつによくこのことを表しています。ここに,現代の「悲劇」の誕生をみることができます。二者択一しかありません。しかし,よくよく考えてみれば,わたしたちは「科学」のみで生きることはできないということは,だれの眼にも明らかです。しかし,お金の魔術にひっかかってしまった人びとには,その可笑しさすらわからなくなっています。お金よりも「命」が大事という,こんな単純な論理すら理解できない人が多数を占めるようになった世の中をどのように考えればいいのでしょうか。
ここに,「批評」が成立する根拠がある,とわたしは考えています。ということは,「スポーツ批評」もまた,このことと無縁ではありえません。スポーツにとって「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」をどのように考えるべきか,わたしのスポーツ批評を支えるひとつの重要な根拠はここにあります。
スポーツにとって「アポロン的なるもの」とは,ルールであり,管理・運営する組織であり,経済的合理主義などによって絡め捕られる側面のことです。それに対して「ディオニュソス的なるもの」とは,スポーツをする喜びであり,フロー体験であり,エクスターズに接近していく快感のようなものを意味します。近代競技スポーツは「アポロン的なるもの」に大きく傾斜していきました。そのために「ディオニュソス的なるもの」を,ルールによって徹底的に排除していきました。そのために,スポーツのあるべき姿が極端に偏ってしまい,勝つことだけが唯一・最高の価値をもつにいたってしまいました。つまり,スポーツは,経済の市場原理に絡め捕られ,さらにはメディアの格好の餌食にされてしまい,形骸化・事物化(ショーズ化)し,金融化へとますます傾斜しつつあります。その結果,子どもの遊びにも等しい,素朴なスポーツをする喜びが軽視され,抑圧され,排除されるという経過をたどりつつあります。
ニーチェの思想・哲学からは,スポーツ批評をする上において,もっともっと多くの重要な示唆をえることができます。それらについては,また,別の機会に触れてみたいとおもいます。今回は,とりあえず,「アポロン的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」という,ニーチェの重要なふたつの概念装置について考えてみました。
いかがでしたでしょうか。こんなことを,とりあえず,わたしは「スポーツ批評」を立ち上げるために必死で考えています。
とりあえず,今日のところはここまで。
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