2013年7月25日木曜日

「スポーツ批評」ノート・その3.マルセル・モースの『贈与論』が示唆するもの。

 マルセル・モースの『贈与論』をどのように読むかということについては,おそらく,専門家の間でもいろいろと議論が分かれているように聞いています。なのに,そこに,なぜ,スポーツ史家を名乗るわたくしごときが参入しなければならないのか,不思議におもわれる方も少なくないでしょう。とりわけ,勝利至上主義や優勝劣敗主義に色濃く染め上げられた近代スポーツ競技だけを「スポーツ」だと信じて疑わない人にとってはそうだろうとおもいます。

 しかし,スポーツという文化は時代や社会とともに大きく変化・変容してきました。そして,時代をさかのぼればさかのぼるほど,スポーツの競技性や競争原理は希薄化していきます。さらに,さかのぼると,スポーツは「儀礼」にゆきつきます。その儀礼の根幹にあるものは,人間を日常性から非日常性へと,つまり,祝祭の時空間へと「移動」させる文化装置であることがわかってきます。もっとつきつめていきますと,人間の内なる動物性への回帰願望を実現させる文化装置ではなかったか,というところにいたりつきます(このあたりのところは,わたしの到達した理論仮説です)。

 このような考え方は,すでに,何回も書いてきましたように,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(および,『呪われた部分 有用性の限界』)から導き出されたものです。しかし,ジョルジュ・バタイユにこのような著作を書かせる引き金になったテクストのひとつが,じつは,マルセル・モースの『贈与論』だったわけです。わたしが,この『贈与論』に惹きつけられ,そこからなにか特別なものを感じとるとすれば,それはバタイユ的視点からである,といってよいですし,またそれ以上のものでもありません。

 では,わたしはこの『贈与論』からなにを示唆されたのか,といえばそのもっとも大きなポイントは以下のとおりです。

 ものを与えたり,それを受け取ったりするいわゆる「贈与」行為の根幹にあるものは,ひとことで言ってしまえば「互酬性」であるということです。マルセル・モースは,かれの時代までに知られていた世界中の人類学的な調査研究の成果を丹念に読み解き,そこで展開されているさまざまな形態の「贈与」に注目し,それらについて整理し,考察を加えていきます。その結果,得られた結論は,それらの「贈与」の形態や性質は,それぞれの地域によってかなり違うということでした。しかし,最終的に到達したことは,それらが「互酬性」という概念でくくられる,ということでした。しかも,この「互酬性」という考え方は,なにもものの贈与・交換だけにかぎられたものではありません。それは,かれらの日常生活の隅々にまで浸透していました。のみならず,「贈与」にもとづく人生観や世界観も形成しているということがわかってきました。つまり,いつの時代や社会にあっても,人が生きる根幹の原理となっているものは「互酬性」ではないか,とわたしは読み取っています。

 ですから,この「互酬性」という概念を,たとえば,こんにちのスポーツを構成し,支えている文化全体に当てはめてみますと,また違った風景がそこに忽然と立ち現れることになります。いささか意外におもわれるかもしれませんが,この「互酬性」という概念は現代社会にも立派に生き続けているということがはっきりしてきます。それは,スポーツにおいてもまったく同じです。

 たとえば,野球の攻防。1イニングずつ,攻守交替しながらゲームを進めていく,このゲームの構造そのものが「互酬性」そのものです。そして,その結果として得点差による勝敗の判定があるだけです。この勝ち負けにこだわる見方と,そのプロセスである「互酬性」を楽しむかによって,野球というものの楽しみ方も変わってきます。これなどは,まさに,「互酬性」のもっともわかりやすい事例ではないでしょうか。あるいは,テニス。あの精神分析学の権威S.フロイトは,テニスをこよなく愛していて,このゲームのことを男女の性愛行為そのものだ,と断定しています。そして,それを立証するために,じつにきめ細やかなテニス・ゲームにおける「互酬性」について記述しています。もっとも,このことを記述したといわれるテクストは偽書ではないか,という批判もあることを申し添えておきます。が,それが偽書であれ,そこに記述されている内容は,性愛の「互酬性」であり,素直に納得させられるものでもあります。

 こうして,スポーツ種目をひとつずつとりあげて,「互酬性」について分析していくと,とても面白い世界が開かれてきます。それは,「賭け」の世界や「八百長」の世界とも,微妙につながっているということです。ヨーロッパ近代は,スポーツのもつこの「負」の側面を徹底的に抑圧し,排除・隠蔽していった経緯をもっています。その結果が,こんにち,わたしたちが立ち会っている近代スポーツ競技の世界だというわけです。

 この「互酬性」という概念を前面に押し出して,サッカー批評を展開した今福龍太氏の名著に『ブラジルのホモ・ルーデンス』があります。このテクストにはサブ・タイトルがついていて「サッカー批評原論」とあります。わたしは個人的には,サッカーをこのレベルで「批評」したテクストに,いまだにお目にかかったことがありません。それは,何回,読み返してみても驚くべきことばかり,その発見の連続です。いずれ,このブログでもとりあげてみたいとおもっています。

 が,マルセル・モースの『贈与論』との関連でいえば,『ブラジルのホモ・ルーデンス』の「プロローグ」に,これまで述べてきたことを集約するような素晴らしい記述がありますので,それを最後に引用しておきたいとおもいます。

 「最近は毎年数ヶ月サンパウロに住んでその社会の内奥をのぞきこみ,人々の日々の喜びと畏怖の感情に触れ,自分をそんなブラジル的日常のなかに投げ出して,ブラジルが与えてくれるものを刺戟と共に受け取ってきた。そのなかで,フチボール(サッカー)への愛がブラジル人の魂のもっとも深い部分で彼らの日常的な感情の統合を創りだしていることに気づいた。フチボールを単に娯楽として消費するのではない,それに支えられそれを支えながら生きる互酬的な「サッカー文化」の深い消息を発見して心打たれた。
 サンパウロに住むブラジル人の友人は,優勝が決まってすぐ私に思索的な電子メールを送ってきた。ロナウドとロナウジーニョが終始喜びを全身にあらわしながらプレーしていたこと,これがチーム全体に伝染し,結果やミスへの不安や恐れをぬぐい去り,遊戯的な快楽に満ちたプレーと勝利への深い確信とを合体させた,と彼は書いていた。そして『ブラジル人はその合体を信じ,勝敗という結果への拘泥を乗り越えたうえでブラジルの勝利を疑わなかった』と。
 友人が,ここでの『合体』という意味をポルトガル語の「結婚」(カザメントゥ)という言葉であらわしていることに,私は深く心揺さぶられた。フチボールを語る言葉が,こんな語彙によって修飾されることを,ここでは男女の愛を日常に結びつける結婚という現実がはらむ複雑な機微のなかでフチボールが想像されている。フチボールが,人間のひたむきで真摯な日常の感情と倫理をまっすぐに受けとめる。そしてそうした現実を,私が胸いっぱい呼吸していたからこそ,ブラジルチームへの私の没入は深い内実を与えられて輝かしく燃えたのにちがいなかった。」

 これはわたしの個人的な受け止め方にすぎないのかもしれません。が,マルセル・モースの『贈与論』の延長線上に,今福龍太氏のこの地平が待ち受けている,とわたしは信じて疑いません。わたしたちがメディアをとおして日常的に受け止めている近代スポーツ競技の世界のなかにも,いまも立派に「互酬性」に立脚したスポーツ文化が生き残っているという,この事実に注目したいとおもいます。しかも,その「互酬性」こそがスポーツをスポーツたらしめている本質ではないか,といまさらのように思いいたる次第です。

 スポーツを批評することの,つまり,現代社会に生きるわたしたちにとって「スポーツとはなにか」と問うときの,ひとつの重要な拠点が,ここにあるとわたしは信じて疑いません。その意味で,マルセル・モースの『贈与論』は,これからの「スポーツ批評」を展開していく上で不可欠のテクストである,と考えている次第です。

 というところで,今日のところは終わりにしたいとおもいます。

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