2013年7月24日水曜日

気持ちを楽にすれば,からだの力みが抜けます(李自力老師語録・その33.)。

 今日(24日)の稽古に,ひょっこり,李老師が現れました。久しぶりのことです。今日は弟子の出席率が低く,わたしとNさんのふたりだけ。ふたりだけでおしゃべりをしながら準備運動をやっているところに,ドアが開いて,にっこり笑顔の李老師。Nさんは,思わず「あっ」と声をあげる。わたしはびっくりして振り返る。すると,李老師は「つづけて,つづけて」と指示。

 毎回,おもうことですが,李老師が稽古に顔を出されると,かならずなさることがあります。それは,ごく基本的な腕の上げ下げにはじまる初歩の初歩の注意,股関節のゆるめ方,腰のまわし方,腕・肘・肩の力の抜き方,目線のおき方,などなど。それと,いつのまにか身についてしまった我流の修正。

 こんな基本中の基本が,いまだに,できないのですから情けない話です。でも,考えてみれば,これらの基本ができれば,あとは自然にできるようになっていく,それが太極拳というものだ,という次第です。頭ではわかっているのに,それができません。だから,稽古をするのだ,という理屈。それも,ひとりではできない,みんなと一緒でないと稽古にならない,というのも不思議なことです。人間はひとりではなにもできない,やはり,他者からのそれとない働きかけが必要なのだ,としみじみおもいます。

 さて,そこで,如是我聞。今日の稽古中の李老師のことばのなかで,わたしの印象に残ったものを書き留めておきたいとおもいます。

 「気持ちを楽にしましょう。そうすれば自然にからだの力みが抜けていきます」というもの。これまでも,何回も,何回も聞いてきたことばです。なのに,いまごろになって,これまでとは違った,こころの底にすとんと落ちるように,そして,からだの隅々にまで浸透していくように「わかる」,不思議な体験でした。「わかる」にはいろいろの階層があるようです。

 たぶん,この「わかる」のレベルに応じて,個々人の稽古の質は違ってくるのだろうとおもいます。これは,なにも,太極拳にかぎったことではありません。わたしの経験したテニスや体操競技でも同じです。それはスポーツにかぎったことでもありません。新聞や雑誌を読んでいても,映画をみていても,あるいは,むつかしい専門書を読んでいても,「わかる」という経験は日常的にしているはずです。しかし,そこにも,「わかる」のレベルはさまざまに現象しているはずです。

 「気持ちを楽にしましょう。そうすれば自然にからだの力みが抜けていきます」などということは,だれでも知っているし,わかっているはずです。しかし,重要なのは李老師の口からでてくることばである,ということなのでしょう。つまり,一定の緊張感をもった師匠と弟子の関係ということが重要なのでしょう。そして,なにより李老師を太極拳の名人としてだけではなく,ひとりの人間としても尊敬できる人だと,信じて疑わないことが前提になるでしょう。ですから,稽古ごとにはいかによい師匠に恵まれるかがなによりも優先されるというわけです。李老師に稽古をつけてもらっている,わたしたち弟子は幸せというものです。

 こうして今日の稽古では,いつもにも増して丁寧に,基本中の基本の動作を一つひとつチェックしてくださいました。至福のひとときです。

 稽古が終わってからの昼食のときも,このつづきの話がありました。
 「太極拳は武術なのだから,仮想の相手を想定して,きびしいまなざしで眼を光らせて表演すべきだ,と考えている人が少なくありません。しかし,それは間違いです。むしろ逆です。仮に敵が目の前に現れたとしても,いつもと変わらず平然として,飄々と応対することが武術家として大事です。その段階ですでに勝負は決まっています。つまり,こころの昂りも,からだの緊張もない,まったくの自然体であることこそが武術としての太極拳の<わざ>が冴えわたり,生き生きとしてくるのです。気持ちが昂ってしまったり,からだが過剰に緊張してしまったら,もはや太極拳の<わざ>は死んだも同然です。ですから,太極拳の表演をするときも,自然体であること,そして,こころとからだの緊張を解き放ち,静かに集中していることが大事です」と。

 今日の稽古では,このほかにも,わたしのこころに響くことばがたくさんありました。いずれ,整理して,このブログでも紹介していきたいとおもいます。
 とりあえず,今日のところはここまで。

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