2013年7月23日火曜日

大相撲・名古屋場所雑感。千秋楽,最後の二番に相撲の醍醐味。

 千秋楽の翌日は近くの区立図書館に立ち寄って,各社の新聞をチェックするのが,わたしの長年の習いとなっている。ところがあいにくの参院選の翌日にあたり,珍しく新聞の奪い合い。仕方がないので,じっくり時間をかけて待つことにしました。

 わたしの狙い目は,昨日の千秋楽の最後の二番をどのように新聞(記者)は書くのだろうか,というただその一点のみ。つまり,稀勢の里と琴奨菊の取組みと,白鵬と日馬富士の対戦。わたしはテレビで観戦していて,「うーん」と唸ってしまうほどに,相撲好きにとってはなかなか味のある相撲内容だった。そして,そのあともあれこれ想像をめぐらせて,存分に堪能した。これぞ,大相撲の醍醐味だ,と。

 しかし,この二番は興ざめだった,と書く新聞が圧倒的に多かった。関心事は勝負の結果のみ。だから,相撲内容についての吟味はほとんどなし。あんな負け方をする稀勢の里には失望した,とか,横綱になる資格はない,などと書き立てている。つぎの横綱対決についても,あんな相撲をだれも期待していない,もっと熱戦を繰り広げなければ千秋楽の結びの一番には相当しない,といった塩梅である。それでいて白鵬には同情的で,日馬富士にはきびしいコメントをつける。わたしの眼からすれば,今場所ではもっともいい,芸術的ですらある,眼の覚めるような立ち合いをみせたというのに。そのことにはなにも触れようともしない。そして,9勝や10勝では横綱とはいえない,とこきおろす。つまり,勝率だけが新聞(記者)にとっては重要なのである。しかし,大相撲のほんとうの楽しみ方はそんなものではない,とわたしは考えている。あの,久し振りにみせた日馬富士の,もう失うものはなにもない,という覚悟の立ち合い。

 だから,わたしは存分にこの一番を堪能した。文句なく「大相撲は面白い」とおもった。うーん,相撲は奥が深い,と。では,この二番,わたしはどのように鑑賞したのか。

 まずは,稀勢の里と琴奨菊の大関対決。稀勢の里がつっかけたとき,あっ,負けだ,とわたしは直観。前日の白鵬と同じ。つまり,心技体のバランスがくずれている。気持ちがはやるとからだが自在には動かなくなる。案の定,琴奨菊はそこを狙っていた。後の先。一呼吸遅らせて,下から低く当たった。立ち会った瞬間に稀勢の里の上体が棒立ちになってしまい,あとは防戦一方。琴奨菊はしめた,とおもったはず。下から下から攻めた。棒立ちのままの稀勢の里のからだはなにもなすすべもなく,もたもたしているだけ。素早い反応ができないのだ。いつもなら,あそこからからだを左右に振って,組み手を振りほどくようにして,つぎの策に転ずるはず。なのに,なにもできないまま,諦めるようにしてあっけなく土俵を割ってしまった。これが稀勢の里の悪いときの典型的な相撲。つまり,いい,悪いの波が大きすぎるのだ。その最大の理由は,相撲の型がまだできあがってはいないからだ。そのため,こころの集中にも波がある。悪いときは悪いなりに体勢を建て直して,自分の充分な型に持ち込む。そういう工夫が足りない。自分充分でないときには,ほとんど抵抗らしい抵抗もなしに,あっさりと相撲を諦めてしまう。悪いクセである。ここを克服しないかぎり綱への夢は実現しないだろう。日本相撲協会も全国の大相撲ファンも,それをこころから待ち望んでいるというのに・・・・。

 この一番,もう少しだけ踏み込んで鑑賞してみよう。稀勢の里は,前日の一番で白鵬に土をつけ,連勝をストップさせた。これで一気に注目を集めることになり,最高に気分が乗っているはずだ。前にも白鵬の連勝を止めたことがある。が,これで波にのるかと期待されたとたんに,気負いすぎてしまう。こころが弱いのだ。つまり,立ち合いの呼吸を自分の方に引き寄せられないのだ。乱れてしまう分だけ,相手の呼吸になってしまう。

 稀勢の里の初日の立ち合いを思い起こしてほしい。二度もつづけて稀勢の里の呼吸が整わなくて立てなかったのである。平幕を相手に,いや,平幕が相手だからこそというべきか。「負けてはならない」という気持ちが先行する。とたんに,からだとこころが引き裂かれたような状態に陥る。稀勢の里は焦ったはずだ。ここが立つタイミングだとわかっているのに,からだが反応しない。負ける原因はここからはじまる。でも,初日はなんとか苦戦しながらも勝ちを拾った。それをみて,わたしは,ああ,今場所はダメだ,とみた。あとはご覧のとおり。前半で三つも取りこぼした。強い日と齢日の波が大きすぎるのだ。つまり,みずからのこころを律する力が足りないということ。したがって,横綱にはまだほど遠い,ということ。

 日馬富士が横綱に昇進したときには,二場所連続の全勝優勝だった。あのときの日馬富士の相撲は美しく輝いていた。心技体がひとつになり,多少,相手につけ込まれてもなんとか凌ぐ力をもっていた。その日馬富士も,横綱になってから苦しむことになる。その最大の理由は両足首のケガにある。そのケガが癒えた場所には,またまた,全勝優勝をはたしている。今場所もまた,その足首に泣かされた。どちらの足首が悪かったのかは不明である。本人も周囲の者も口を割らないからだ。親方ですらも知らないかも。ということは足首が悪いのか,悪くないのか,それもじつはまったく不明。しかし,今場所の,とりわけ立ち合いの乱れをみれば,明々白々だ。日馬富士本来の,まともな立ち合いをしたのは数番しかない。なんとか楽をして(足首に負担をかけないで),勝ちを拾おうとした。そういう相撲はことごとく失敗に終った。相撲はそんなに甘いものではない。

 その日馬富士が,千秋楽になって今場所,最高の立ち合いをした。千秋楽ならではの,覚悟の立ち合いだ。また,それくらいのことをしてでも,最後に「いい相撲」をとっておかなければ,自分が許せなかっただろう。日馬富士とはとういう力士なのだ。しかも,相手は横綱・白鵬だ。かりに,はたき落とされたとしてもかまわない,と覚悟を決めて。だから,その立ち合いの前に出るスピードはすさまじいものだった。立った瞬間に白鵬のからだが撥ね飛ばされた。こんなことは珍しいことだ。いかに体調が万全ではないとはいえ,白鵬を一発で,あそこまで後退させた力士はこれまでにはいなかったはずである。もし,あったとしても,そのつぎの瞬間には白鵬の体勢は,予想される攻防に備えて万全の体勢で構えているはずだ。しかし,その余裕を与える隙もみせずに,日馬富士の二の矢が飛んだ。それで勝負あり。

 この立ち合いのみどころは,この一番で,足首の古傷を痛めてもいいと覚悟した日馬富士と,この一番で,右脇腹の肉離れをこれ以上悪くしたくはない,と考えた白鵬との,みごとなまでの対照的な差がでた,とわたしはみる。吹っ切れた日馬富士と,ほんのちょっとした気の迷いがはからずも表出してしまった白鵬。これが勝負の行方の明暗を大きく分けることになった。が,これはあくまでもわたしの勝手な推測である。このような事実のわからない,実態が不明な,ひたすら想像力と推測に頼るしかない,まさに虚実のあわいに,じつは大相撲の醍醐味が隠されているのである。この微妙な心理状態と,置かれた立場によって,相撲内容は大きく変わる。また,そこには眼にみえない力士同士の気魄をとおしての駆け引きもある。もっと言ってしまえば,これまでの対戦成績の貸し借りもある。そうしたものがトータルになって,その日の土俵の上での勝負が繰り広げられる。それは,もはや,神のみぞ知る,そういう世界なのだ。そういう領域にどこまで接近できるのか,それが相撲を鑑賞する能力の問題だ。そこでは,もはや,熱戦であろうがなかろうが,関係はない。一瞬,一瞬の,瞬間に垣間見せる,力士同士の気と気のぶつかり合いのようなもの,その交換,交流,交信,駆け引きであり格闘,生身の身体が表出するなにか光を帯びたようなもの,そうしたすべてのものがトータルとなって,土俵下の控えにいるときから始まっている。このあたりのことは,場所に行って,じかに,自分の眼で確認するしかないのだが・・・・。それでも,テレビの映像をとおして,かなりの部分はみえてくる。

 大相撲の醍醐味とはこういうことなのだ。
 だから,千秋楽の横綱対決は,立ち会う前に勝負はついていた。白鵬は勝てそうにないと負けを意識した。その瞬間に日馬富士は勝ちを確信した。その結果,迷わず一直線に飛び込んで行くことができた。そこには一瞬の迷いもなかった。そうしたトータルが,この日の日馬富士の爆発的な威力とアーティスティックな美しさを秘めた,みごとな立ち合いを実現させえた,とわたしには見えた。だから,わたしは大満足だった。

 大相撲は奥が深い。わたしがみえているものは,まだまだ,その序の口にすぎないのだろうとおもう。なぜなら,たとえば,舞の海の解説を聞いていると,言外に含みをもたせた不思議なニュアンスを感ずるからである。そこを手がかりにわたしなりに想像力をたくましくしてみると,また,別の世界が開けてくるからである。その世界は,もはや,勝ち負けを度外視した,幽玄の世界に接近していくような,芸能者としての力士が遊ぶ,神がかりの世界にも等しいようにおもう。髷を結った異形の身体が放つ,この世にあらざるあの世を彷彿とさせるような,あるいは,そことの交信を楽しんでいるような相撲の世界である。

 ああ,本場所の砂かぶりの席で,力士の息遣いが聞こえる至近距離から,名力士の勝負をじっくりと鑑賞してみたいものだ。いつの日にか,これを実現させてみたい。死ぬ前に一度でいいから。

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