2013年7月1日月曜日

『スポーツする文学』(疋田・日高・日比編著,青弓社)をどう読んだか。

 このテクストの編者2名と著者1名を囲んで,このテクストをどのように読んだか,という研究会が奈良教育大学で開催された(6月29日午後1時30分~6時)。主催は「ISC・21」(21世紀スポーツ文化研究所)。世話人は井上邦子さん。

 ブログラム的に紹介をしておけば,以下のとおり。
 日高佳紀:テニス文芸のレトリック─田中純と「月刊テニスファン」×林郁子
 西川貴子:「わたし」と「わたしたち」の狭間─「走ることを語ること」の意味×松浪稔
 疋田雅昭:スポーツしない文学者─祭典の熱狂から抜け落ちる『オリンポスの果実』×稲垣正浩

 最初に各著者によるかんたんなプレゼンテーションがあって,それを受けて各コメンテーターが意見を述べるという形式をとった。それぞれのディスカッションに各1時間30分ほどが配分された。が,いずれも時間が足りないほどの意見の交換があった。その意味では,とても盛り上がった研究会になったと思う。

 しかし,わたしの個人的な感想としては,いささか物足りなかった。それは最初から予想されたことではあったが・・・・。なぜなら,日本文学を専門とする人びとが「スポーツ」を語ることと,わたしたちスポーツ史・スポーツ文化論的な立場に立つ人びとが「スポーツ」を語ることとの間には,最初から相当の乖離があると予想されたからである。実際にも,このテクストを最初に読んだときのわたしの印象は,この人たちは「スポーツ」というものをどのように考えているのだろうか,という大いなる疑問があった。その意味では,巻末に紹介されていた著者たちの「スポーツ歴」が役に立った。なるほど,こういう人たちが「スポーツ」を語るとこういうことになるのか,と。わたしたちの側は,一応は,なんらかの形でSpitzensport(世界の頂点をめざす近代競技スポーツ)に全身全霊を傾けた経験をもっている。だから,「スポーツ」というものを研究対象にするときの姿勢が基本的に違っている。かんたんに言ってしまえば,文学の側から「スポーツ」に光りをあてるのと,スポーツの側から「文学作品」を取り上げるのとでは,そのヴェクトルが真逆になっているからだ。

 このことは最初からわかっていたことであるし,それどころか,そうであるからこそこの研究会は面白くなる,と大いに期待していた。結果は,予想どおり。もののみごとに議論はスレ違っていく。その理由を考えることにこそ,この研究会の意味はある,とわたしは最初から覚悟していたので,じつに楽しくみなさんの議論を傍聴し,かつ,参加させていただいた。しかし,ついに議論をかろうじて成立させるための共通の土俵はみえないままに終った。これは初対面の若い男女の会話のようなもので,と半分は楽しみつつ,半分は苛立っていた。

 その最大のネックは「スポーツ」ということばについての理解の仕方にある,とわたしは考えていた。それはなによりもわたしたちの責任でもあるのだが,「スポーツ」ということばの概念規定がきちんとできていない,ということからくるものであるからだ。だから,あえて言ってしまえば,「スポーツ」ということばは学術用語としては,いまだ,認知されていないのだ。議論が噛み合わなくてスレ違うのも,すべてはここに端を発している。

 こういうことは以前からわかっていたことであるし,考えつづけてきたことでもある。つまり,「スポーツとはなにか」という,ある意味では永遠のテーマがそこには横たわっている。だから,わたし自身としては,「スポーツとはなにか」というこの根源的な問いに対する応答の仕方として,スポーツ史という方法を選んだ。しかし,それだけではとても応答できないと知り,その枠組みを少しだけ広げてスポーツ文化論という立場を取り込んだ。この過程で,わたしは「文学作品」や「絵画」が,「スポーツとはなにか」を考える上できわめて有効な手段になるということに気づいた。そして,いっときは相当にのめり込んで,この分野をさまよい歩いた。その余波はいまも残っていて,文学にはそれなりのアンテナを張り,絵画を中心とする美術作品の動向にも強い関心をもちつづけている。

 が,それでもまだなにかが足りないと気づく。「スポーツとはなにか」という根源的な問いを深めていけばいくほど必要なものは思想であり,哲学である,と気づく。こちらも,いまから考えれば,その情熱のそそぎ方のレベルはともかくとして,相当以前に遡ることができる。とりわけ,西谷修さんをとおして触れることになったフランス現代思想からの影響は,長くて,強い。そのお蔭で,日本の禅仏教の思想,とりわけ,道元に触れ,西田幾多郎に触れ,とうとう仏教経典にまでのめり込むことにもなった。そして,それはとても役に立っている。というよりも,みずからが寄って立つべき思想・哲学というものが次第に明らかになるにしたがって,あらゆるもののみえ方が変わってきた。つまり,登山のようなもので,高い山の頂上に立つことを繰り返しているうちに,少しずつ「見晴らし」がよくなってきたのである。

 こうした遍歴を経て,ようやく「批評」ということの意味が少しずつわかりはじめてきた。今福龍太さんの『ブラジルのホモ・ルーデンス─サッカー批評原論』や蓮実重彦さんの『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』などの主張していることの意味がようやくみえてくる。となると,わたし自身の「スポーツ批評」のスタンスを明確にしなくてはならなくなってくる。いま,ちょうど,このことを考えつづけているときだったので,久し振りに読み返すことになった『スポーツする文学』は,「文学批評」に新たな「補助線」を引く,まったく新たな試みではないのか,と考えることになった。

 もし,このテクストの編者や著者たちが,このことを強く意識して『スポーツする文学』というタイトルをつけ,各論でそれぞれのスポーツ競技種目をとりあげて「スポーツ批評」を展開し,最終的にまったく新たな「文学批評」の磁場を構築しようとしているとしたら,このテクストは画期的な意味をもつものではないか,と考えた。だから,わたしはこの点にかなりこだわりをもってコメントをさせていただいた。が,残念ながら,議論はスレ違ってしまった。だれが悪いということではなくて,こういう本質的な議論をするためには,もっともっと時間をかけてしっかりとした共通の「土俵」(アリーナ)を構築しなくてはならないのだ。

 この研究会は異種格闘技のようなもので,初めての手合わせ。だから,お互いにとまどうのは当たり前。議論はこれからはじまる,とわたしは受け止めた。こんどは,わたしたちの側から「スポーツする文学」のワークショップなどとの接点をさぐっていくべきだ,とも。

 それにしても,やはり,異種格闘技はむつかしい。でも,とてもスリリング。こういう営みをとおして,わたしたちの思考回路の硬直化を防止しなくては・・・・としみじみ考えた次第。

 最後になりましたが,わたしたちの研究会にお出でくださった日高さん,疋田さん,西川さんにこころからの謝意を表します。ありがとうございました。これに懲りずに,こんごともお付き合いくださることを,このブログをとおして(失礼ながら)お願いします。

 わたしの考えた『スポーツする文学』の「批評性」について,はいずれ機会をあらためて書いてみたいと思います。取り急ぎ,今日のところはここまで。

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