2013年7月17日水曜日

「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)事始め。『スポートロジイ』創刊号のことばより。

 明日(18日)か,遅くとも明後日(19日)には『スポートロジイ』第2号が印刷所からわたしのところにとどく予定,とみやび出版の伊藤さんからメールが入りました。「よっしゃっ!」とひとりガッツ・ポーズ。昨年出した創刊号はどこか自信がもてないまま,手さぐり状態でしたが,第2号は腹をくくって編集方針を絞り込み,すっきりしたものに仕上がったと自負しています。もちろん,それに応えてくださった著者があってのことですが・・・・。

 まもなく書店にも並ぶということですので,今回のブログでは,なぜ,「スポートロジイ」なる研究紀要を刊行するにいたったのか,確認の意味で,創刊号のトップに書き込んだ「創刊のことば」を紹介しておきたいと思います。これを読んでいただければ,『スポートロジイ』第2号が,どの方向に向って第一歩を踏み出したのかも,おおよそのところはおわかりいただけると思うからです。ご笑覧の上,ご意見・ご批判などいただければ幸いです。

●創刊のことば
「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)事始め

    「動物は世界の内に水の中に水かあるように存在している」(ジョルジュ・バタイユ)

 幼い子どもが遊びに熱中したり,大人でも遊びに忘我没入したりするとき,自他の区別がなくなっている。スポーツもまた,面白くなってくるとわれを忘れて夢中になっている。つまり,自他の垣根が取り払われて,他者と渾然一体となって溶け合ってしまう。これらは,自己を超えでていく経験であり,「生」の全開状態,すなわちエクスターズ(恍惚)そのものである。その経験は,ひたすら「消尽」であり,「贈与」である。
 スポーツ,あるいは,スポーツ的なるものが立ち現れる源泉はここにある,とわれわれは考える。スポーツの中核には,このようなエクスターズ(恍惚)への強い欲望がまずあって,その周縁にさまざまな文化要素が付随して,それぞれの地域や時代に固有のスポーツ文化を生成してきた,と思われる。だとすれば,スポーツとは「動物性への回帰願望の表出」そのものではないか,ということになる。
 そこで問題になるのは,スポーツを成立させることと理性のはたらきとの関係性であろう。このときの理性とは,ヒトが動物の世界から<横滑り>して,ヒトから人間になるときに新たに獲得した能力のことである。したがって,理性を人間性と置き換えてもいいだろう。いうなれば,理性(すなわち,人間性)は最初から,動物性を抑圧し,排除・隠蔽する力として働いてきた。しかし,理性がどこまで頑張ってみたところで人間の内なる動物性を消し去ることはできない。したがって,「生きもの」としての人間にアプリオリに備わる動物性と人間性とを,どのように折り合いをつけて,その「生」を最大限に発露させるか,という大きなテーマがそこに立ち現れる。
 スポーツは,いうなれば,その両者のはざまで揺れ動く,微妙な文化装置として登場したとも考えられる。だとしたら,「生きもの」としての人間にとってスポーツとはなにか,という根源的な問いがそこから立ち上がることになる。
 しかしながら,現代社会に君臨している「理性」は,いつのまにやら「テクノサイエンス経済」(ピエール・ルジャンドル)なる狂気と化して,「生きもの」としての人間の存在を脅かしはじめている。「3・11」後の原発事故による脅威は,その典型例といってよいだろう。いまこそ「生きもの」としての人間にとっての<理性>をとりもどし(西谷修),人間が生きるとはどういうことなのか,ということに思いを致すべきだろう。
 「21世紀スポーツ文化研究所」もまた,同じ立場に立ち返り,スポーツの側からこの根源的な問題に取り組むことが不可欠であると考える。そのためには,これまでの体育学やスポーツ科学のパラダイム・シフトが喫緊の課題であると考えた。その結果,スポーツにかかわるあらゆる題材を研究対象とする新たな「学」として,「スポートロジイ」(Sportology=「スポーツ学」)を提唱することにした。
 「生きもの」としての人間にとって「スポーツ」とはなにか。
 すなわち,「3・11」後を生きるわれわれが,スポーツとはなにかを問うことは,まさに「生きもの」としての人間とはなにかを問うことだ。そのための最優先課題は,スポーツにかかわる思想・哲学的なバック・グラウンドを固めることにある。

 われわれの試みはまだその緒についたばかりである。つねに「スポートロジイ」がなにを課題としているかを忘れることなく,一歩ずつその地歩を固めていきたいと考えている。大方の忌憚のないご批判をいただければ幸いである。

 2012年4月30日 ことのほか美しい新緑に眼を細めながら
        21世紀スポーツ文化研究所主幹研究員 稲垣正浩

 以上です。
 これ以上に簡潔に言うことはできないというところまで切り詰めてのことばですので,この種の思考に慣れていない人びとにとっては,いささか難解であるかもしれません。が,少しだけ近代合理主義的な思考から「離脱」し,前近代的な非合理的な思考の方向に,立ち位置を「移動」させていただければ,その意とするところは,意外にすんなりと理解してもらえるのではないかと思います。

 この精神を深く胸に刻んで,『スポートロジイ』第2号の編集に取組みました。そして,その思いをこめた第2号にはどのような巻頭のことばを書き込んだのか,その内容については,明日,ご紹介してみたいと思います。

 それでは,今日のところはここまで。

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