2013年7月1日月曜日

神武天皇像(奈良市登美が丘)と登弥(とみ)神社(奈良市石本町)をフィールド・ワーク。(出雲幻視考・その5.)

  村井康彦氏の『出雲と大和──古代国家の原像をたずねて』(岩波新書,2013年)をテクストにして,出雲幻視を楽しもうとかねてから企んでいましたが,久しぶりに奈良にでかける用事がありましたので,そのついでに二カ所ほどフィールド・ワークを楽しんできました。案内役は奈良市内に在住のT君。車で案内してくれるので,とても助かります。

 さて,テクストの『出雲と大和』の記述のなかに,長髄彦(ナガスネヒコ)のことが「国譲り」神話との関連で,かなり詳しく論じられています。それによれば,邪馬台国の「王」ではなかったかと村井氏が推理するニギハヤヒノミコトの右腕として大活躍したのがナガスネヒコ。かれは,神武東征の折に,その楯となって,一度は神武軍を圧倒して,追い返してしまいます。武力的には対等以上の力をもっていたと考えられています。

 そのナガスネヒコが拠点としていたのが,生駒の東山麓から矢田丘陵,さらに磐船街道および富雄川流域と奈良市内の登美が丘一帯でした。この区域内に,なんと巨大な神武天皇像(台座もふくめると高さ16m)があり,そこから富雄川にでて南にくだった辺りに神武がこの地に到来したことが神社の由来であるとする「登弥(とみ)神社」が祀られています(奈良市石本町)。その二カ所を回ってきました。

 まずは,神武天皇像から。なぜか,御嶽さんの奈良本宮(里宮)の境内の一角,それもこんもりと繁った小高い森の上に巨大な神武天皇像が建てられています。もちろん,御嶽さんの所有です。その入り口の案内によれば,「橿原神宮からの御分霊を入魂。国家安泰と国運隆昌を祈り,さらには地神であった登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ:長髄彦)をはじめ戦いに散った御霊を慰霊申し上げています」とあります。


 
 
ここで注目したいことは以下のとおり。「地神」であったナガスネヒコという記述と,戦いに散った御霊,という記述です。テクストの著者村井康彦氏の説によれば,邪馬台国は奈良盆地のほぼ中央に位置する唐古・鍵遺跡のあたりに宮殿があり,その周囲を北西部・南西部・東部の三つ,すなわち「イコマ」「ミマス」「ミマキ」の三官が「ナカト」と呼ばれる宮殿を守っていたのではないか,といいます。このうちの「イコマ」がナガスネヒコの拠点であった,というわけです。つまり,神武が大和に侵攻して大和朝廷をつくる以前の「イコマ」はナガスネヒコが支配していた,という次第です。ですから,最終的には神武の勢力に敗れたナガスネヒコとその一族の「御霊」を慰霊する必要があるわけです。しかし,それを前面に出すことができないので,まずは,巨大な神武天皇像を建立し,天皇制を肯定した上で,その背後にあったナガスネヒコの霊を慰めようというわけです。

 しかし,奇怪しなことに,その神武天皇像からやや南に下った丘陵の中腹に,かなり広い玉砂利を敷いた聖域(石柱と石梁で囲まれている)があります。そこには,なんと,これまた巨大な「大黒さん」と「恵比寿さん」が大きな台座の上に鎮座ましましていらっしゃるではありませんか。大黒さんも恵比寿さんも,いろいろ神仏混淆があって,姿・形を変えてはいますが,もとの姿は大黒さんはオオクニヌシ,恵比寿さんはコトシロヌシ(事代主:オオクニヌシの長男)だと考えられています。ですから,ここには,堂々たる出雲族の代表者であるオオクニヌシとコトシロヌシの像が安置されているということになります。


 

 
しかも,神武天皇は西の方(すなわち,生駒山の方角=九州方面)を向いて立ち,大黒さんと恵比寿さんは南の方(すなわち,「ナカト」:邪馬台国の宮殿方向)を向いて立っています。このことは,いったい,なにを意味しているのでしょうか。しかも,大黒さんと恵比寿さんの聖域の端っこに,木曽の御嶽山に祀られている神々のミニチュアが飾ってあります。明らかに,こちらの神々は大黒さんと恵比寿さんに遠慮しているように見受けられます。この配置もまた,とても暗示的です。御嶽信仰と出雲族とは切っても切れないなにか秘められた関係がある,とその場でわたしは直観しました。詳しいことはこれからの課題ですが・・・・・。

 つぎに,登弥神社。こちらは富雄川を南に下っていって,まもなく丘陵がなくなり奈良盆地に吸収される先端,富雄川の左岸の丘の森の中にありました。最初の鳥居から社殿までは長いアプローチがあって,ゆるやかな坂道を登っていきます。こんもりと生い茂った森がとてもいい雰囲気を醸しだしています。参道の右側には古墳かなと思われるような丸い小山がみえます。


 
この神社で気になったのは,まずは,「登弥(とみ)」という表記。なぜ,「登美」,あるいは「冨」と表記していないのか。なにゆえに,わざわざ,一字,別の当て字を用いているのか。この神社の由来にも,やはり,神武がこの地にやってきたことを祈念してこの神社ができたと書いてある。しかし,神武が祀られているわけではない。どうみても,天皇制を,まずは肯定しているようにみせかけておいて,その実態はトミノナガスネヒコを祀るのが本音ではないか,と思われてならない。

 社殿は数えてみると大小とりまぜて全部で七つある。社殿ごとに祀られている神々は以下のとおりである。

 本殿御祭神
 東本殿:高皇産霊神,誉田別命
 西本殿:神皇産霊神,登美〇速日命,天児屋根命

 摂社御祭神
 祓殿社:瀬織津比売神,速秋津比売神,気吹戸主神,速佐須良比売神,表筒男神,中筒男神,底筒男神
 山室神社:大物主神,菅原道真公
 豊穂神社:大日零命,豊受比売神,天宇受女神
 荒神神社:大山祇神,庭高津日神
 比良田神社:猿田彦神,大巳貴神,八重事代主神


 
以上です。これらの神々の名前をじっとみつめていますと,なんともはや不思議な気分になってきます。まあ,なんと多くの神々が祀られていることか,と。しかも,系譜の異なる神々が渾然一体となっていることに驚きを禁じえません。さて,これらの神々の組み合わせをどのように読み解くかはこれからの課題としておきましょう。

 でも,一点だけ確認しておきたいことは,やはりその中心には「トミノニギハヤヒノミコト」が祀られていること,そして,摂社の主役は「オオモノヌシ」と「スガワラミチザネ」であり,「オオナムチ」と「ヤエノコトシロヌシ」であることです。すなわち,出雲族がその中心に鎮座しているということです。これはわたしの単なる推理でしかありませんが,たぶん,いろいろの神々を混淆させることによって,出雲族の存在を薄めることを,意図的・計画的に仕込んだのではないか,ということです。そうしないと,この「登弥神社」を維持していくことが困難になる,なんらかの事情があったのだろう,と。もう少し踏み込んでおけば,出雲族に対する圧力が終始働いていたのではないか,ということです。それは,「ノミ」や「スガワラ」という姓が,蔑称として陰口でささやかれていたという伝承からも,容易に想像できることです。

 こうした「トミノナガスネヒコ」にまつわる秘められた神社が,やはり,この富雄川の流域や登美が丘周辺には相当数,存在しているように思われます。あるいは,最近になって祭神の名を公表するようになってきているのかもしれません。だとすると,これからもっともっと多くの神社が,出雲族との関係を公表する時代がやってくるのではないか,とわたしは密かに期待しています。そうなることによって,天皇制の陰に虐げられてきた「国譲り」神話以後の出雲族の,真の姿が浮き彫りになるのではないか,それがまた日本史の真の姿を明らかにすることになるのではないか,と考えるからです。その鍵を握るのが「河童」伝承ではないか,と考えています。そして,そのさきに,わたしは密かに「相撲」のもうひとつの顔を透視しようと企んでいます。

 歴史の実像に少しでも近づくために。スポーツ史研究はそこまで踏み込む時代がやってきた,とわたしは自負しています。奈良在住のT君のこれからの仕事に大いに期待しつつ,わたしも密かにあれこれ推理を楽しむことにしています。まさに,「幻視」を楽しんでいるふりをしつつ,じつは真実に接近することを願って・・・・。

 とりあえず,今日のところはここまで。


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