「スポーツ批評」に関する著作をものするよう,某出版社からの依頼があり,この半年の余,考えつづけている。しかも,その原稿の締め切りが8月末。何人かの共同執筆なので,なんとかなるとたかをくくっている。が,その序章に「スポーツを批評するとはどういうことなのか」をわたしが書くことになっている。それを見届けてから執筆にとりかかる,と共同執筆者たちは待ち構えている。わたしは序章など待つ必要なく,それぞれの立場から「批評」を展開すればいい,と言っているのだがなかなか許してはくれそうもない。
依頼を受けたときには,編集担当者に,その場で思い浮かぶ「スポーツ批評」のツボの部分について即興でお話をさせてもらった。すると,即座に,その話を序章にもってきましょう,と即決。そして,読者が大学の教養の学生という前提でわかりやすく書いてください,とのこと。はい,わかりました,と安請け合い。これがそもそもの間違いのもとだった。
根が真面目なものだから,すぐに思い当たる「批評」「文学批評」「芸術批評」「スポーツ批評」などに関する文献をかき集めてポイントを整理しはじめた。ここからドロ沼にはまることになってしまった。つまり,各論者の主張に振り回されてしまうのである。いささかオーバーな表現をすれば,ピンからキリまで無限大の様相を呈している。そうか,「批評」というジャンルのひろがりはかくも多種多様なのか,と知る。
どういうことかと言えば,「批評」とは,そもそも論者の主義主張をまるごとぶっつける行為であって,一人ひとりその思想・哲学のよって立つ基盤が異なるために,厳密に言えば,一人一家言という世界が可能であるからである。つまり,「批評」とはかくあるべし,などというマニュアルは存在しない,ということなのだ。だから,このことを前提にして「スポーツを批評するとはどういうことか」を大学の教養部の学生向けに書くということは至難の業と言わねばならない。まずは,ここでいきなり躓いてしまった。
もう一つの困難は,「スポーツ批評」という分野がほとんど未開拓の分野で,これぞ「スポーツ批評」といえるようなテクスト,または前例が見当たらない,ということだ。もちろん,あることはある。しかし,きわめて少なく,その議論はまだまだその緒についたばかりというのが現状である。つまり,まだ,手さぐりの段階にあって,これから大いに議論していかなくてはならない,しかも,それがきわめて重要な分野であるということである。したがって,そういう,ある意味では未知の分野に分け入っていかねばならないという,初手から蛮勇が求められている。これは容易なことではない。そのためには相当に腹をくくらなくてはならない。
しかし,少しだけ冷静に考えてみると,これらのもの言いは一種の逃げであって,問題はきわめて単純で明解なのだ,ということがわかる。つまり,「批評」とは論者の思想・哲学がもろに曝け出される行為にすぎない,というただそれだけのことなのだ。したがって,みずからの思想・哲学が確たるものであれば,その信念にもとづいて「批評」を展開すればいい,ただ,それだけである。しかし,その思想・哲学なるものがしっかりとわがものとなっていないが故に,みずからのスタンスを決めることができないだけの話である。その結果として,なんらかの権威に頼ろうとしてしまう。だが,それは大いなる間違いだ。どんなに権威に頼ろうとも,最後は論者の思想・哲学のレベルに応じて「批評」がなされるだけの話である。
したがって,論者の思想・哲学がいかなるものであるかが「批評」の中核をなす,ということが了解されれば,いまさら序章の「スポーツを批評するとはどういうことか」を待つ必要はない。最初から,それぞれの論者が,みずからの「批評」を展開すればいい。確たる思想・哲学をわがものとしている論者はそのレベルでの「批評」を展開するであろうし,そうでない論者はそれぞれのレベルでの「批評」を展開するだけのことである。
ただし,共著であるので,各論者の主義主張がまったくのばらばらでは困る。そのために,長年,ともに研究会で議論を積み重ねてきて,お互いに,どのような主義主張をしてきたかは,とことん知り尽くしている仲間を共同執筆者として選んでいる。したがって,どんな書き方をしようとも,大方の主義主張のベクトルが同じ方向に向っているはずである。だとすれば,それでよしとする,ここが落としどころである。
ここまで書いてきて,はたと気づくことは,わたしがここ数年の間,書きつづけてきたこと,研究会で語ってきたこと,あるいは,このブログである議論を展開してきたこと,それらのすべてが「批評」そのものではないか,ということである。もっとわかりやすく言えば,「スポーツとは何か」という根源的な問いに対するみずからの応答,この行為そのものが「スポーツ批評」そのものである,ということだ。
では,お前の主張する「スポーツ批評」の原点になる論考はなにか,と問われるむきには,つぎのように応答しておくことにしよう。
繰り返しになるが,「スポーツ批評」とはとどのつまりは「スポーツとは何か」と問うことであり,その解を求める行為である。そのための議論をするための共通の土俵のひとつとして提示した論考が『スポーツ史研究』(スポーツ史学会学会誌)に総説論文として投じた「スポーツ」とはなにか──新たなスポーツ史研究のための理論仮説の提示(第23号,P.1~12.2010年)である。ここには,わたしの思想・哲学的なバック・グラウンドのほぼ全容が提示されている。ここが,とりあえずは,わたしの「スポーツ批評」の原点となる。
もちろん,その後の思想・哲学的遍歴も加わっているので,いまは,それなりに「スポーツ批評」のスタンスも進化しているつもりである。しかし,とりあえず,公開されたもののうちで,いま一定の信を置いて確認できる根拠は,この論考ということになる。これを,このまま,別の語り口で書き直せば,それで序章・スポーツを批評するとはどういうことなのか,は出来上がる。
わたしが「スポーツ批評」を展開する根拠は,とりあえずは,ここに集約されている,と断言しておこう。
もう少しだけ補足をしておこう。この『スポーツ史研究』に投じた総説論文の骨子は,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を軸にして展開したものである。しかも,そこから導き出される思考の淵源は,西田幾多郎の提示した「純粋経験」や「行為的直観」などとも通底するものであるし,さらには道元の『正法眼蔵』で展開されている思想・哲学とも共振するものである。もっと言っておけば,仏教の『般若心経』の世界にもつながっていく。
このあたりのことは,21世紀スポーツ文化研究所の紀要である『スポートロジイ』の創刊号(2012年刊)と第2号(2013年刊)の研究ノートとして,拙稿が掲載されているので,参照していただければ幸いである。創刊号のタイトルは「スポーツ学」(Sportology)構築のための思想・哲学的アプローチ──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解・私論(P.148~274.)。第2号のタイトルは,スポーツの<始原>について考える──ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりにして(P.190~279.)。
これだけでは無責任の誹りをまぬがれそうにないので,もう少しだけ踏み込んで,「スポーツ批評」ノートの各論を展開してみたい。その2.以下はそういう内容になる予定。かなり多岐にわたる予定であるが,お付き合いいただければ幸いである。
依頼を受けたときには,編集担当者に,その場で思い浮かぶ「スポーツ批評」のツボの部分について即興でお話をさせてもらった。すると,即座に,その話を序章にもってきましょう,と即決。そして,読者が大学の教養の学生という前提でわかりやすく書いてください,とのこと。はい,わかりました,と安請け合い。これがそもそもの間違いのもとだった。
根が真面目なものだから,すぐに思い当たる「批評」「文学批評」「芸術批評」「スポーツ批評」などに関する文献をかき集めてポイントを整理しはじめた。ここからドロ沼にはまることになってしまった。つまり,各論者の主張に振り回されてしまうのである。いささかオーバーな表現をすれば,ピンからキリまで無限大の様相を呈している。そうか,「批評」というジャンルのひろがりはかくも多種多様なのか,と知る。
どういうことかと言えば,「批評」とは,そもそも論者の主義主張をまるごとぶっつける行為であって,一人ひとりその思想・哲学のよって立つ基盤が異なるために,厳密に言えば,一人一家言という世界が可能であるからである。つまり,「批評」とはかくあるべし,などというマニュアルは存在しない,ということなのだ。だから,このことを前提にして「スポーツを批評するとはどういうことか」を大学の教養部の学生向けに書くということは至難の業と言わねばならない。まずは,ここでいきなり躓いてしまった。
もう一つの困難は,「スポーツ批評」という分野がほとんど未開拓の分野で,これぞ「スポーツ批評」といえるようなテクスト,または前例が見当たらない,ということだ。もちろん,あることはある。しかし,きわめて少なく,その議論はまだまだその緒についたばかりというのが現状である。つまり,まだ,手さぐりの段階にあって,これから大いに議論していかなくてはならない,しかも,それがきわめて重要な分野であるということである。したがって,そういう,ある意味では未知の分野に分け入っていかねばならないという,初手から蛮勇が求められている。これは容易なことではない。そのためには相当に腹をくくらなくてはならない。
しかし,少しだけ冷静に考えてみると,これらのもの言いは一種の逃げであって,問題はきわめて単純で明解なのだ,ということがわかる。つまり,「批評」とは論者の思想・哲学がもろに曝け出される行為にすぎない,というただそれだけのことなのだ。したがって,みずからの思想・哲学が確たるものであれば,その信念にもとづいて「批評」を展開すればいい,ただ,それだけである。しかし,その思想・哲学なるものがしっかりとわがものとなっていないが故に,みずからのスタンスを決めることができないだけの話である。その結果として,なんらかの権威に頼ろうとしてしまう。だが,それは大いなる間違いだ。どんなに権威に頼ろうとも,最後は論者の思想・哲学のレベルに応じて「批評」がなされるだけの話である。
したがって,論者の思想・哲学がいかなるものであるかが「批評」の中核をなす,ということが了解されれば,いまさら序章の「スポーツを批評するとはどういうことか」を待つ必要はない。最初から,それぞれの論者が,みずからの「批評」を展開すればいい。確たる思想・哲学をわがものとしている論者はそのレベルでの「批評」を展開するであろうし,そうでない論者はそれぞれのレベルでの「批評」を展開するだけのことである。
ただし,共著であるので,各論者の主義主張がまったくのばらばらでは困る。そのために,長年,ともに研究会で議論を積み重ねてきて,お互いに,どのような主義主張をしてきたかは,とことん知り尽くしている仲間を共同執筆者として選んでいる。したがって,どんな書き方をしようとも,大方の主義主張のベクトルが同じ方向に向っているはずである。だとすれば,それでよしとする,ここが落としどころである。
ここまで書いてきて,はたと気づくことは,わたしがここ数年の間,書きつづけてきたこと,研究会で語ってきたこと,あるいは,このブログである議論を展開してきたこと,それらのすべてが「批評」そのものではないか,ということである。もっとわかりやすく言えば,「スポーツとは何か」という根源的な問いに対するみずからの応答,この行為そのものが「スポーツ批評」そのものである,ということだ。
では,お前の主張する「スポーツ批評」の原点になる論考はなにか,と問われるむきには,つぎのように応答しておくことにしよう。
繰り返しになるが,「スポーツ批評」とはとどのつまりは「スポーツとは何か」と問うことであり,その解を求める行為である。そのための議論をするための共通の土俵のひとつとして提示した論考が『スポーツ史研究』(スポーツ史学会学会誌)に総説論文として投じた「スポーツ」とはなにか──新たなスポーツ史研究のための理論仮説の提示(第23号,P.1~12.2010年)である。ここには,わたしの思想・哲学的なバック・グラウンドのほぼ全容が提示されている。ここが,とりあえずは,わたしの「スポーツ批評」の原点となる。
もちろん,その後の思想・哲学的遍歴も加わっているので,いまは,それなりに「スポーツ批評」のスタンスも進化しているつもりである。しかし,とりあえず,公開されたもののうちで,いま一定の信を置いて確認できる根拠は,この論考ということになる。これを,このまま,別の語り口で書き直せば,それで序章・スポーツを批評するとはどういうことなのか,は出来上がる。
わたしが「スポーツ批評」を展開する根拠は,とりあえずは,ここに集約されている,と断言しておこう。
もう少しだけ補足をしておこう。この『スポーツ史研究』に投じた総説論文の骨子は,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を軸にして展開したものである。しかも,そこから導き出される思考の淵源は,西田幾多郎の提示した「純粋経験」や「行為的直観」などとも通底するものであるし,さらには道元の『正法眼蔵』で展開されている思想・哲学とも共振するものである。もっと言っておけば,仏教の『般若心経』の世界にもつながっていく。
このあたりのことは,21世紀スポーツ文化研究所の紀要である『スポートロジイ』の創刊号(2012年刊)と第2号(2013年刊)の研究ノートとして,拙稿が掲載されているので,参照していただければ幸いである。創刊号のタイトルは「スポーツ学」(Sportology)構築のための思想・哲学的アプローチ──ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』読解・私論(P.148~274.)。第2号のタイトルは,スポーツの<始原>について考える──ジョルジュ・バタイユの思想を手がかりにして(P.190~279.)。
これだけでは無責任の誹りをまぬがれそうにないので,もう少しだけ踏み込んで,「スポーツ批評」ノートの各論を展開してみたい。その2.以下はそういう内容になる予定。かなり多岐にわたる予定であるが,お付き合いいただければ幸いである。
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