いよいよ選挙まであと一週間。なのに気持ちはむなしさばかりがふくらみます。なんともはや気の重い選挙になってきました。支持したい候補者も政党もみつからないのですから。
わたしの住んでいる溝の口は田園都市線とJR線とがクロスする交通の要所になっています。その乗り換えのためのコンコースが選挙演説をするには絶好のポイントになっていて,毎日のように各政党の候補者が入れ代わり立ち代わりして,演説をやっています。ですから,いつのまにかほとんどの政党・候補者の演説を聞き,パンフレットも集まっています。
わたしがガッカリしてしまうのは,まずは,演説が下手。なぜ,もっと演説の仕方を研究しないのだろうか,と不思議です。この人たちはふだんから演説の稽古をしていなくては駄目でしょう。おそれ多くも,政治家を志すのであれば,道行く人の足を止め,聞き入らせるくらいの弁論術を身につけるべきではないか。なのに,どの候補者もまるで一夜漬けの素人演説。人を説得する力に欠ける。つまり,演説に感情移入が足りない。
わたしが子ども時代を過ごした田舎の小さな寺は,選挙があるたびに候補者の演説会場となっていました。父はなぜか,政党の区別なしに,申し入れがあればどの候補者にも門戸を開いていたようです。ですから,子どものころから,地元では有名な政治家の演説を聞いていました。ふだん新聞もほとんど読まない農家の人たちを相手に,じつに気持ちの籠もった,説得力のある演説をぶっていました。小学生だったわたしにもなるほどと納得させる演説でした。ですから,政治家というのは偉い人たちなんだと思って育ちました。
それに引き換え,市会議員候補の演説はやはり下手でした。小さな村から一人の市会議員を送り出すのが精一杯でしたので,事前に話し合いがなされ,競合を避けていたのでしょう。たいした選挙運動もせず,演説会もせず,当選していました。が,あるとき,同じ村から二人も立候補するときがあって,このときは激しい選挙運動が展開されました。演説会もひんぱんに開かれました。もちろん,わたしの寺もその会場となりました。ですから,両方の候補者の演説を聞かせてもらいました。が,演説の体をなしていません。これは仕方がないのだろうなぁ,と子どもごころにも理解していました。
ですから,衆議院議員候補の演説のうまさがなみはずれて光っていました。子どもですらホロリとさせられるほどの情感のこもった語り口とことばが,聞く人のこころを打ちました。いま,こんな演説のできる候補者は数えるほどしかいないのではないか,と思います。
この演説が下手な上に,訴える選挙スローガンが,わたしとは相容れない候補者ばかりです。ですから,演説を聞いていて,あなたはいったいどんな勉強をして,どんな情報にもとづいて,そのような主張をするようになったのか,と苛立つばかりです。しっかりとした裏付けのない,ほとんどなんの根拠もない,もっと言ってしまえば,誤解と勘違いによる主張ばかりが口からでてきます。しかも,人のこころをとらえる情話がほとんどありません。ですから,「無力感」というか,「むなしさ」ばかりがふくらんでいきます。
わたしのスタンスは,まずは,脱原発に舵を切りましょう,つぎに尖閣諸島を「棚上げ」にもどしましょう(アメリカのニューヨーク・タイムスの社説でも「棚上げ」にもどすべし,と主張しています。これが国際社会の常識です。藪から棒の,突然の一方的なわが国固有の領土宣言は,百害あって一利なしです),その結果として,憲法改悪・集団的自衛権は必要なし(自民党の憲法草案を読むべし。中学生でもこれは変だということがわかります),そして,TPP反対(アメリカン・スタンダードに組み込まれるということは日本が日本ではなくなるということです),沖縄の米軍基地を県外へ(基地の大半を沖縄に押しつけて平気でいられるヤマトンチュであることが恥ずかしい。無責任そのもの),連動して「日米地位協定」の廃絶を(これがあるかぎり,日本は独立国とは言えません。つまり,主権国家ではないまま,こんにちにいたっているということです),そして,なによりもフクシマは終ってはいない,この国難に真っ正面から取り組むべし(臭いものにはフタ,という姿勢がありあり),そして,復興予算の適正な配分を(ほんとうに困っている人のところにとどくように)・・・・とうとう。あげていけば際限がありません。
こんな風に考えていますので,支持政党も候補者もなくなってしまうわけです。ほんとうに日本再生を考えるのであれば,まずは,ここからはじめるべきだとわたしは考えています。「強い日本をとりもどそう」などといって再軍備にむけて舵を切ろうとしている政党こそ,ベクトルがまったく逆だ,とわたしは考えています。
わたしが不思議で仕方がないのは,どの政党もこぞって「尖閣はわが国固有の領土だ」と主張しているということです。これでは,まるで「裸の王様」も同然です。情けないことですが,これが日本の政党の現状です。だれかひとりくらい「王様は裸だよ」という人がでてきてもいいのではないでしょうか。いまこそ,「裸だ」と言える「正気」をもった政治家(なんにんかいらっしゃることは,すでに,このブログでも書いたとおりです)が必要です。いまは「狂気」一色に染まってしまった政治情況からの離脱と移動が喫緊の課題だと,わたしは強く主張したいと思います。
とはいえ,投票日はやってきます。棄権するのはくやしいので,圧勝を予想されている政党とは,少なくともどこかで対抗している政党のいずれかに投じようと思っています。そして,少なくとも,得票率だけでも過半数はやらない,という意志表明をしたい,と。
みなさんはどんな風にお考えなのでしょうか。
わたしの住んでいる溝の口は田園都市線とJR線とがクロスする交通の要所になっています。その乗り換えのためのコンコースが選挙演説をするには絶好のポイントになっていて,毎日のように各政党の候補者が入れ代わり立ち代わりして,演説をやっています。ですから,いつのまにかほとんどの政党・候補者の演説を聞き,パンフレットも集まっています。
わたしがガッカリしてしまうのは,まずは,演説が下手。なぜ,もっと演説の仕方を研究しないのだろうか,と不思議です。この人たちはふだんから演説の稽古をしていなくては駄目でしょう。おそれ多くも,政治家を志すのであれば,道行く人の足を止め,聞き入らせるくらいの弁論術を身につけるべきではないか。なのに,どの候補者もまるで一夜漬けの素人演説。人を説得する力に欠ける。つまり,演説に感情移入が足りない。
わたしが子ども時代を過ごした田舎の小さな寺は,選挙があるたびに候補者の演説会場となっていました。父はなぜか,政党の区別なしに,申し入れがあればどの候補者にも門戸を開いていたようです。ですから,子どものころから,地元では有名な政治家の演説を聞いていました。ふだん新聞もほとんど読まない農家の人たちを相手に,じつに気持ちの籠もった,説得力のある演説をぶっていました。小学生だったわたしにもなるほどと納得させる演説でした。ですから,政治家というのは偉い人たちなんだと思って育ちました。
それに引き換え,市会議員候補の演説はやはり下手でした。小さな村から一人の市会議員を送り出すのが精一杯でしたので,事前に話し合いがなされ,競合を避けていたのでしょう。たいした選挙運動もせず,演説会もせず,当選していました。が,あるとき,同じ村から二人も立候補するときがあって,このときは激しい選挙運動が展開されました。演説会もひんぱんに開かれました。もちろん,わたしの寺もその会場となりました。ですから,両方の候補者の演説を聞かせてもらいました。が,演説の体をなしていません。これは仕方がないのだろうなぁ,と子どもごころにも理解していました。
ですから,衆議院議員候補の演説のうまさがなみはずれて光っていました。子どもですらホロリとさせられるほどの情感のこもった語り口とことばが,聞く人のこころを打ちました。いま,こんな演説のできる候補者は数えるほどしかいないのではないか,と思います。
この演説が下手な上に,訴える選挙スローガンが,わたしとは相容れない候補者ばかりです。ですから,演説を聞いていて,あなたはいったいどんな勉強をして,どんな情報にもとづいて,そのような主張をするようになったのか,と苛立つばかりです。しっかりとした裏付けのない,ほとんどなんの根拠もない,もっと言ってしまえば,誤解と勘違いによる主張ばかりが口からでてきます。しかも,人のこころをとらえる情話がほとんどありません。ですから,「無力感」というか,「むなしさ」ばかりがふくらんでいきます。
わたしのスタンスは,まずは,脱原発に舵を切りましょう,つぎに尖閣諸島を「棚上げ」にもどしましょう(アメリカのニューヨーク・タイムスの社説でも「棚上げ」にもどすべし,と主張しています。これが国際社会の常識です。藪から棒の,突然の一方的なわが国固有の領土宣言は,百害あって一利なしです),その結果として,憲法改悪・集団的自衛権は必要なし(自民党の憲法草案を読むべし。中学生でもこれは変だということがわかります),そして,TPP反対(アメリカン・スタンダードに組み込まれるということは日本が日本ではなくなるということです),沖縄の米軍基地を県外へ(基地の大半を沖縄に押しつけて平気でいられるヤマトンチュであることが恥ずかしい。無責任そのもの),連動して「日米地位協定」の廃絶を(これがあるかぎり,日本は独立国とは言えません。つまり,主権国家ではないまま,こんにちにいたっているということです),そして,なによりもフクシマは終ってはいない,この国難に真っ正面から取り組むべし(臭いものにはフタ,という姿勢がありあり),そして,復興予算の適正な配分を(ほんとうに困っている人のところにとどくように)・・・・とうとう。あげていけば際限がありません。
こんな風に考えていますので,支持政党も候補者もなくなってしまうわけです。ほんとうに日本再生を考えるのであれば,まずは,ここからはじめるべきだとわたしは考えています。「強い日本をとりもどそう」などといって再軍備にむけて舵を切ろうとしている政党こそ,ベクトルがまったく逆だ,とわたしは考えています。
わたしが不思議で仕方がないのは,どの政党もこぞって「尖閣はわが国固有の領土だ」と主張しているということです。これでは,まるで「裸の王様」も同然です。情けないことですが,これが日本の政党の現状です。だれかひとりくらい「王様は裸だよ」という人がでてきてもいいのではないでしょうか。いまこそ,「裸だ」と言える「正気」をもった政治家(なんにんかいらっしゃることは,すでに,このブログでも書いたとおりです)が必要です。いまは「狂気」一色に染まってしまった政治情況からの離脱と移動が喫緊の課題だと,わたしは強く主張したいと思います。
とはいえ,投票日はやってきます。棄権するのはくやしいので,圧勝を予想されている政党とは,少なくともどこかで対抗している政党のいずれかに投じようと思っています。そして,少なくとも,得票率だけでも過半数はやらない,という意志表明をしたい,と。
みなさんはどんな風にお考えなのでしょうか。
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