2013年7月26日金曜日

「スポーツ批評」ノート・その4.ベンヤミンの『暴力批判論』の示唆するもの。

  ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』が,とりわけ「批評」の世界でさまざまに論じられ,いまも大きな存在であることは,衆知のとおりです。しかしながら,スポーツの世界では「スポーツ批評」が未熟なままであったために,ベンヤミンの『暴力批判論』をベースにした議論は,残念ながらほとんどありません。

 いわゆる「スポーツ評論」の分野はとても活発で,各競技種目ごとに専門家がいて,とてもにぎにぎしく「評論」が展開されています。しかしながら,腰のすわった本格的な「スポーツ批評」はほとんどみられません。ここでいう「評論」と「批評」の違いについては,とても重要な問題が秘められていますので,ぜひ,どこかでしっかりと論じてみたいと考えています。ので,ここでは「スポーツ批評」にとってベンヤミンの『暴力批判論』がどういう点で重要であるのか,というところに焦点をあてて考えてみたいとおもいます。

 スポーツ批評にとって,スポーツの「ルール」の問題を論ずることはきわめて重要な眼目のひとつだと,わたしは考えています。その点で,ベンヤミンが提示した「法措定的暴力」と「法維持的暴力」の二つの概念装置と,「神話的暴力」と「神的暴力」の二つの概念装置は,スポーツ批評にとっては不可欠な,きわめて重要な意味をもっている,といっていいでしょう。なぜなら,スポーツにとって「ルール」はその命運を決するきわめて重要なファクターであるからです。つまり,スポーツを成り立たしめている命綱であると同時に,アスリートたちのパフォーマンスを決定づける上で,きわめて大きな力となっているからです。

 ここではあまり深入りすることはできませんが,大急ぎでベンヤミンの『暴力批判論』の示唆するところを概観してみたいとおもいます。

 まずは,法措定的暴力。スポーツのルールはいつ,だれが,どのようにして決めるのか。少なくとも近代スポーツ競技にあっては,きわめて重大な意味をもっています。しかも,しばしば「ルール改正」(はたして「改正」であるかどうかを判断する基準・コンセプトが大問題)が行われます。そのときに働く「力学」がどのようなものであるのか,そして,それが,だれに利するものであるのか,つまり,アスリートにとってか,観衆にとってか,あるいは,競技の管理・運営者にとってか,さまざまです。こうして,なんらかの形でルールを措定するということは,まぎれもなくそれはひとつの「暴力」として機能することになります。

 つぎには,法維持的暴力。一度,定めたルールを維持しようとするときに働く力もまた,ルールを改正したいとする側からすれば,とてつもなく大きな暴力として機能することは明らかです。ここでは,激しい論争が展開することになります。そして,最終的には,特定の委員会での多数決に委ねられることになります。この多数決原理もまた,立派な「暴力」装置であることも見逃してはなりません。

 こうした法措定的暴力と法維持的暴力の二つの概念装置を,もう少し違った角度から焦点を当てたものが「神話的暴力」と「神的暴力」の二つの概念装置です。

 で,まずは,神話的暴力。ごく大づかみにわたしの理解しているレベルで書いてみますと,以下のようです。ルールを決定(措定)するときにはたらく暴力と,ルールを維持していこうとするときにはたらく暴力の二つを合わせたものが神話的暴力ということになります。つまり,ルールを決めることも,ルールを維持することも,確たる根拠はどこにもありません。ある,なにか,偶然のような「力」がはたらいて,ルールが決められたり,維持されたりしている,というのが実態です。そういう状態の暴力のことを,ここでは「神話的」とベンヤミンは言っているようにおもいます。

 つぎは,神的暴力。こちらは神話的暴力とは正反対で,神話的暴力を根底から引っくり返すような暴力のことを意味している,とわたしは解釈しています。つまり,ルールを決定したり,維持したりする,いわゆる権力に対して,徹底的に抵抗し,最後は「エイヤッ!」という決断しかないという暴力のこと,というわけです。言ってしまえば,ジャック・デリダが言った「力の一撃」に近い概念だとおもいます。ですから,それは「神話的」(世俗的)でもなんでもなく,神がかった理念のもとでの「暴力」とでも言えばいいでしょうか。ですから,「神的暴力」というわけです。ベンヤミンの頭のなかには,たぶん,革命がイメージされていたのではないか,とわたしは類推しています。

 このような,ベンヤミンの提示した「暴力批判」をどのように受け止めるかは,それこそ論者の思想・哲学上の問題であり,思想・信条の問題です。あるいは,広義の信仰,つまり,宗教の問題でもあります。ちなみに,ベンヤミンの立場は,マルクス主義とユダヤ教的救世主待望論とがミックスされた独特の歴史哲学にもとづいている,といわれています。

 スポーツ批評が未熟なままであるのも,じつは,このような確たる歴史哲学に立脚した「批評」を展開する論者が現れない,という一点につきます。批評とは,まったなしに論者の思想も哲学も歴史観も,みんな剥き出しにされてしまう行為にほかなりません。そういうスポーツ批評家を,できることならめざしてみたい,とわたしは考えています。

 ちなみに,ベンヤミンはナチスのユダヤ人狩りを逃れて亡命する途中に,ジョルジュ・バタイユに会って,遺稿をすべてバタイユに託しています。そして,フランスからスペイン国境にさしかかったところで自殺しています。

 というところで,今日のところは終わりとします。

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