2013年7月15日月曜日

日曜美術館・鈴木其一の「朝顔図屏風」をみる。解説がなにか変?

 恥ずかしながら鈴木其一という琳派の流れをくむ画家の名前も画業も知りませんでした。が,今日(14日),NHKの日曜美術館をみて初めて知りました。そして,ごの人の絵は桁がはずれていると素直に思いました。こんな凄いひとがいたんだ,とびっくりしました。「青い」朝顔を屏風いっぱいにうねりくねった姿で描いたこの屏風は素晴らしいと思いました。「青い」色にこんなに奥行きがあって,しかも柔らかい。変幻自在の「青」。この絵をみるためだけでもいいからメトロポリタン美術館へ行ってみたいとおもいました。

 しかし,この人の絵をめぐって,日曜美術館の制作者たちは,科学的なデータを示したり,解説をする画家や美術史家とか美術評論家といわれる人たちに,NHKにとって都合のいい解説ばかりを「編集」してみせていました。この人たちの解説を聞いていて,いったい,この人たちはなにを考えているのだろうか,と強烈な違和感を感じました。どう,考えてみても,今日の番組に登場して解説した人たちはみんな奇怪しい,とわたしは感じました。また,この人たちを起用したNHKの制作者たちも奇怪しい,と。

 まず,第一に,鈴木其一の「朝顔図屏風」(メトロポリタン美術館所蔵)という傑作を,科学的に分析してみると・・・・という発想そのものが奇怪しい。鈴木其一が描いた朝顔の「青い」色使いを科学的に分析してみた結果は,膠を混ぜる量が少し少なめであった,だから,其一独自の「青」が出せたのだ,という説明。バカいってんじゃないよ,と画面に向かっていつものように「吼え」てしまいました。画家が自分の好みの色をどのようにして出すか,そんなことを「科学」で説明してみたところで,だからなんなんだ,と聞きたい。ならば,どのくらいの割合で膠を混ぜたのか,そのデータを一つひとつ提示せよ,といいたい。そして,この色合いを出すにはこの割合だったと,もし,科学的根拠の正当性を主張したいのであれば,きちんとその「科学的」データを提示すればいい。でも,そんなことはなにもしませんでした。たぶん,それをやっている制作者たちも意味がないということを承知しているはず。だから,それで終わり。

 こうやって,NHKという公的メディアは,「科学」という名のもとに「正しい」とされる分析結果を提示することによって,これを視聴する国民の意識に対して,無意識のうちに大きな影響を与えつつげているのです。この事実にわたしは驚愕の念を禁じえません。「アート」を「科学」で説明してなんになる,というのがわたしの立場です。ことばでも科学でも説明できない世界のひろがりがあるからこそ,「アート」の存在理由がある,とわたしは考えています。それを「理性的」に,「合理的に」解説することの無力さをわたしは痛切に感じています。ですから,もし,どうしてもそのような議論をしたいのであれば,そのことの意味(有用性)と限界をはっきりと提示した上で,議論をしてほしいと考える者であります。

 それともう一点。何人かの解説のために登場した人びと(画家,美術史家,美術評論家,など)の多くの人が,鈴木其一を「「奇想の人」とか,「狂気の人」とか,「クレージー」ということばを用いて評論したこと。これは断じて許せません。あなた方はいつから「上から目線で」ものをいう資格をわがものとしたのでしょうか。これはこの番組を制作したプロデューサーやディレクターも同じだと思いますが,江戸時代の画家は,近代のわたしたちからみれば,まだまだ発展途上の未熟な存在でしかない,という不遜な目線に満ちあふれているように思います。この姿勢に対して,わたしは全体重をかけて「ノー」と言いたいのです。

 天才と呼ばれる人たちを,ふつうの物差しではかってはいけません。そこからはずれるからこそ「天才」なのです。そうでなかったら,ふつうの人で終わりです。鈴木其一は,ただ,ひたすら,みずからの信ずる「美」を追求しただけのこと。師匠を超えてやろうとか,ライバルを意識して違う方法を編み出したとか,そんなことはどうでもよかったはず。たとえば,「青」を,自分にとっての理想の「青」を出すためには,ありとあらゆる創意工夫・試行錯誤を繰り返したはずです。そして,この「青」こそが求めてやまなかったものだ,ということがはっきりした段階でその「青」をとことん表現していくのだと思います。

そのなによりの証拠を,青の色粉60グラムで米一俵に相当した,といわれる色粉を惜しげもなくつかってこの屏風図を描いたというところに,みてとることができます。鈴木其一にとって,カネなどというものはどこかにすっとんでいたはずです。ですから,解説者たちは「奇想の人」「狂気の人」「クレージー」などと名づけて平気でいられるのでしょう。しかし,このような「名づけ」をして平然としている人たちがもし「正気」であるというのなら,「正気」からはなにも新しいものは生まれてこない,ということです。むしろ,なにものにもとらわれない美意識をそのまま表現する営みこそが「正気」であって,近代合理主義的な考え方に支配された計算・打算で生きている人たちの方がむしろ「狂気」なのではないか,と考えます。裸の王様に向かって「裸だ」という人こそ「正気」であり,それが言えない人たちこそ「狂気」ではないか,と。

 「日曜美術館」を制作しているあなた方は,いまもなお「進歩発展史観」にあぐらをかいて,いまという時代を生きている自分たちこそが最高の歴史的遺産の上に存在しているのだ,と信じて疑わないのだろうなあ,と思いました。しかし,それこそが根本的に間違っているというのがわたしの立場です。いま,この日本で生きているこの社会は,はたしてわたしたち日本人がめざしてきた理想的な社会だったのでしょうか。そうではなくて,とてつもない「破綻」をきたした社会であることはだれの眼にも歴然たる事実です。ここで,あえて,原発の問題をもちだすまでもないでしょう。

 ましてや,「アート」の世界を近代論理(あるいは,近代の「科学神話」)で解説したところで,なんの意味があるというのでしょうか。「アート」の世界こそ,つねに,時代を超越した新しい感性が,時代の制約を突き破って花開く場だとわたしは考えています。たとえば,ピカソ。かれは,鋭く時代精神と対峙しつつ,そんなものはどこ吹く風とばかりに飛翔し,みずから信ずる「美」の世界の探求に没頭しました。それは,近代論理の限界をはるかに超越した,いや,近代の呪縛から解き放たれた「自由の世界」を遊ぶことだった,とわたしは受け止めています。

 ですから,鈴木其一の描いた「朝顔図屏風」を,近代論理の高みから解説することの「愚」を,今日の日曜美術館をみていて,いやというほど感じてしまいました。ああ,こうやって権力にとって都合のいい価値観を「日曜美術館」という番組をとおして,視聴者の無意識の底に流し込んでいくのだ,ということがよくわかりました。

 すこし前のブログで紹介した辺見庸の『青い花』(角川書店)のなかに,「模範的国民意識形成機関NHK」という痛烈な批評表現が書き込まれています。このことを,まさに,「地」でいく番組のひとつが「日曜美術館」であったかと,いまさらのように驚いている次第です。

 まあ,ここまで書いてしまいましたので,最後に,思い切って辺見庸の文章を引いて,このブログを閉じたいと思います。どうか,最後まで読んでみてください。そして,途中で笑い出さないでください。なにはともあれ,大まじめに読んでみてください。それが,わたしの願いです。

 ・・・・・・・・下痢ばかりしている戦争狂の道化。軍事オタクの同輩。テレビからひりだされてきた大阪のあんちゃん。あんちゃんに土下座してあやまる自称進歩的新聞社。どこまでも図にのるあんちゃん。道化どもをもちあげるマスコミ。模範的国民意識形成機関NHK。いいね! サムアップ。拡散希望! 歓呼の声をあげる貧しきひとびと。携帯をだきしめる貧しきひとびと。いきわたる貧困ビジネス。スマホ。スアホ。ドアホ。闇汁ファシズムは骨がらみひとをだめにする。闇汁ファシズムにとくていの領野はない。なんでも融かすのだ。石でも良心でも憎悪でも「不幸な意識」でも共産党でも,なんでも。だれをも不感症にしてしまう。税金と受信料と新聞代,携帯料金をはらってファシズムを買っている。われら貧しきひとびと。虐げられしひとびと。いいね! サムアップ。拡散希望! わたしはあるいている。風にのってどこからか,しずやかな歌声が聞こえてくる。これは演歌ではないか。わたしは耳を澄ましてあるいている。これはコロッケのふざけた声ではない,本物のちあきなおみの哀しい声だ。声が闇にとろけていく。ちあきなおみ本人の姿はない。「・・・こんなにはやく時はすぎるのか・・・紅い花,暗闇のなか・・・踏みにじられて流れた・・・紅い花・・・」。こんなにもはやくときはめぐるのか。青い花よ。きょうこ。わたしはあるいている。わたしは線路をあるいている。


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

科学的分析は、金箔に群青を濃く乗せる手法の解明のために使われていたわけですが、何故ここまで糾弾されなくてはいけないのでしょう?。日曜美術館は、単に絵が好き、アートが好きだけな趣味人が見るだけでなく、アーティストやそれを目指す学生たちも見ているわけで、こう言った技術的な話に関心がある視聴者は存在するわけです。

また、今日で言われるアーティストと江戸の画工を一緒にされて考えられておられるようですが、その職業意識はまるで異なるわけで(そもそも其一は、抱一付きの酒井家家臣です)、其一が高価な群青をふんだんに使えたのは、単に芸術の為だけにそうしたわけでなく、それだけの予算が使える注文主が先ず在ってのことです。絵が売れまくってお金がざっくざくで高価な群青も感性の赴くまま使い放題だったわけではありませんので。

また、其一が奇想の画家と呼ばれるのは、昨今の江戸絵画ブームの中では、伊藤若冲や曾我蕭白らと同様、流派の伝統や常識に囚われない発想やオリジリティ有する画工に対する、むしろ誉め言葉であるのです。琳派が余白の美学と装飾的リズムをその特徴とするのなら、あの朝顔図屏風はやはりそのマナーからは外れている。其一も当然、光琳の燕子花図屏風(もちろん師匠抱一のものも含め)の存在を知っての上での、あの花の乱舞ですから。あの咲かせっぷりが「狂おしいまでに」と形容されていたのであって、辻先生はじめ番組に登場された皆さんは誰一人、其一の人間的資質のお話をしていたわけではありませんでしたが。

失礼ですが、残念ながらこのエントリのご意見は、ちょっと的外れな番組批判だと言わざるを得ません。